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江川三郎先生を偲んで   思いを残さずに生ききる

江川三郎先生を偲んで
思いを残さずに生ききる

江川先生が1月18日に逝去された。
1時間後くらいにお嬢さんからご連絡をいただき、残念な気持とともに
数々の思い出がよみがえり胸が熱くなった。
私にとってはオーディオの師匠であるにとどまらず、人生の生き方ま
で伝えていただいた貴重な先達であり、その足跡は私の仕事のあ
り方とも大きくかかわるものなので、みなさんにもお伝えしたいと思う。
先生は当初、オーケストラのマネージメントの仕事をしていたが、40代
から本格的にオーディオの評論をはじめ、以降他の人が考えもつか
ない視点で新しい世界を拓いていった。
「ケーブルによって音が違う」
「電源のコンセントの差込方向で音が違う」
「トランスやモーターの電磁波が音に影響を与える」
「スピーカーの箱鳴りが音を悪くする」
「アンプやスピーカーなどの支点をしっかり支えないと音が悪くなる」
「巨大化はデメリットが大きく、小さく軽い方が音が良い」
これらは今ではオーディオ界では常識となっていることたちだが、当
時は変人扱いされながらも、先生が情熱を持って世に広め、日本だ
けでなく世界へも大きな影響を与えた。
結果としてみれば極めて合理的なことで、今となっては疑う人もないこ
とだが、先生は感覚ひとつで探り当て、それをさらに理論で解明し
伝えていった。
その常識や先入観にとらわれない、音そのものを確実に判断し、それを
新しいものに結実させて、音の世界を広めていった原動力になった
のは、すぐれて健全で、真っ直ぐで、濁りのない直感力だ。
誰も頼りにしない、誰のためでもないその直感のひらめきで、世の流
れを変えていった当時は正に「天才」の名に値する勢いにあふれて
いた。
しかし今にして思うともっと凄いのは、決して偉ぶることがなく、いつ
も気さくで、正直で、飾らないことだった。
むしろ権威を嫌っていたように感じられる。
これはなかなかできることではない。
特に年齢を重ね、創意が減退していった時には人は権威に頼ろうと
する。
しかし先生は最後までそうはならなかった。
これはオーディオ以上に私には大きな教えとなって、一つの生き方
の規範として、心に刻まれている。
私は若い時、秋葉原のオーディオ専門店に籍を置き店員をしていた
ので、比較的音の客観的判断力には自信を持っている。
そして直感的に何をどう組み合わせ、どう作ればいいだろうかという
感覚もあるほうだと思う。
秋葉原で先生が主催していたイベントの初期には参加して多くのこと
を教わったけれど、先生と私の反応はきわめて近いものがあった。
それで新しいアイテムが見つかると「松橋さん、これ試してみてよ」と
制振金属や新しく工夫した金コロイドケーブルなどを手渡された。
ご自分の感覚で良いと判断されたものを追試してほしいという意向と
感じた。
押しかけの弟子ではあったが、ずいぶんと可愛がっていただいたと
思うけれど、それには私の職業も大きな影響があったかもしれない。
先生は無類の美味しいもの好きだった。
イベントのときもっていった天然酵母のパンや寺田本家のお酒、無
添加のアタリメなどに満足の笑みをうかべ、本能でここには美味しい
ものがあると感じていただろう。
いやむしろ、先生にとってはオーディオも食べることもひとつのことだ
った。
そういう意味で先生と私は感覚を共有していた部分があったと思う。
後年先生が秋葉原のイベントに行かなくなり、地元の阿佐ヶ谷でそれ
の続きのような会が開かれたとき、私は自分の機材を持ち込んで、会
の維持に協力した。
FIDELIXの中川さんの新しいアンプなど、ぜひ先生に聴いてほしか
った。
先生はまだ頭もしっかりしていたし、耳の判断力もきちんとあったので
まだオーディオ業界で先生に頑張ってもらわなくてはというこちらの勝
手な思いからのものだった。
しばらく続いたのだけれど、最後の会のことは今も忘れられない。
何がテーマだったかは忘れたけれど、先生は自宅から歩いてこられ、
かなりお疲れで遅れて到着された。
着いて安心したのか、私が話を進めている間に居眠りを始めた。
私を含めて数人の参加者は気付いていたが大人の態度で、見て見
ぬふりをしていた。
けれど娘さんといっしょに来ていた四、五歳のお孫さんが「おじいちゃ
ん、寝ちゃだめ!」と言っておこそうとした。
家庭内では先生とその子は、食べ物のことで競合関係にあるらしい。
けれどその後、先生のその子への態度が変わったという話を娘さんか
ら聞いた。
その時、そのお孫さんが一番先生とちゃんと向かい合っていると感じ
たし、先生もそう思ったのだろうと想像する。
私は先生が偉いオーディオ評論家としてでなく、ひとりの老人として
生きていこうとしていると感じ、以降先生を刺激してこの業界にとどまっ
て影響力を維持してほしいという願いを諦めようと思った。
それは人間としてまったく見事な選択だし、尊重されなくてはならない。
権威や過去に縛られず、やるだけやりきって思いを残さず、ひとりの
素の人間として生きていく。
私はまた先生から大きなことを伝えられたと感じた。
昨年、先生と同年代の母親を同じ病で失ったけれど、二人とも私の
中には生きていて何かの光を灯し続けている。
心からご冥福を祈ると共に、感謝と尊敬の念をお伝えしたい。

作る楽しさ耕す人たち その20 餃子屋へいはちの市川貴史さん 人好き+反骨+繊細+混沌≒餃子

作る楽しさ耕す人たち   その20
餃子屋へいはちの市川貴史さん
人好き+反骨+繊細+混沌≒餃子

池袋から西武線で20分ほどの東久留米にはまだ緑が多く残っている。
区画整理や開発が遅れたおかげだけれど、近年は駅前も整備され次第に
姿をかえつつある。
イオンの大型店が開業し、西口の駅前通りもいずれは小金井街道に直結し、
市の活気は次第に西側に移っている。
取り残されたようなバス通りを右に曲がって道なりにジグザグに進み、坂を
降りた住宅街の一角に市川さんの餃子屋「へいはち」がある。
木造で平屋の都営住宅が解体され新しい鉄筋に建て代わりつつある見晴ら
しの良い場所で、昼はガランとしていて、夜は少しさびしい。
アルミサッシの引き戸とどこにでもある昔からのお店という感じの外観だが、
夜は照明に照らされてオレンジのテントが目立つが、最初に入るのは勇気が
いるだろう。
正体が分からない混沌が支配している。
中に入ると間口が広い割には客席は少なく、真ん中に数人が座れる大きな
テーブルがあり、周囲にコの字型にカウンター型の奥行きの少ないテーブル
が置いてある。
壁には黄色い紙にマジックペンで、大きな字でメニューが書いてあり、いたる
ところに張ってある。
決して座りやすいとは言えない椅子やチープな雰囲気満載のテーブルととも
に、30年ほど前の日本か東南アジアの食堂に迷い込んだ錯覚におちいる。
もうちょっとなんとかならないの?という印象と、妙に気持が落ち着いてこれで
いいんだよなあという感情が同時に体の中でゆれ動いて、それだけで私など
うれしくなってしまう。
数百円の定食には必ず煮物がついていて、実質本位で気取らず、お客さん
の健康を考えたメニューにも暖かさを感じる。
店の右奥は広い調理場になっていて、客席の2倍位のスペースはあるのでは
ないだろうか?
左側は以前クリーニングの取次ぎ店をやっていたスペースで、餃子の皮を作
るための製麺機、餃子を自動で包む機械、-60度の冷凍庫、餃子を焼くた
めの鉄鍋などがゆったりと置いてある。
活気があるけれど雑然とし、かなり贅沢な使い方だ。
能率を求め手を抜いてお金を得ようとか、見かけをよくして消費者に媚びを
売ろうという姿勢が感じられない。
時計の動きが遅くなり、空気もゆっくりと流れているようだ。
オーナーの市川貴史さんは2代目だ。
物静かだがはっきりした生きる基準を持っていることが感じられる小柄なお
母さんと二人で店を切り盛りしている。
不定休だが、火曜以外は休まずに働き続けている。
法政大学時代はテニスしかしなかったバリバリの体育系で、身体はがっちりと
逞しい。
法政や明大の学食にいりびたっていたそうだが、理由は「食べることも好き
だけれど、他人が食べて幸せそうになるのを見るのが好きだから」だという。
人間が好きなのだ。
卒業して就職する時も辞めてから自分で何かを始めるときに役にたつものをと
考えて選択し、銀座アスターという高級中華料理店に入社した。
大卒は調理を出来ない決まりで、フロア係りや店長を務めたが見よう見まね
で料理を覚えていった。
私がへいはちの餃子を食べたのはごく最近のことだけれど、味のセンスの
良さに驚いたことをはっきり記憶している。
ごくごく在り来たりの材料から、バランスよく、ある意味上品とも言える味を引き
出している。
入ったことはなかったけれど、店の佇まいからは想像もできない垢抜けた味
だった。
それと同時に材料を良くすれば味が、よりよくなる可能性を感じて、なんとも
勿体無い感じがした。
2、3日後また会う機会があり、正直に感想を言ってみると、「じゃあやってみ
ましょうか」ということで試作が始まった。
使いやすさとコストの面を考えて、小麦粉と砂糖と塩を提案してみた。
2日後には試作品を持ってまた現れ、早速試食してみた。
洗糖は浮ついた甘みを消し去り旨みを増すのに役立ち、バリの塩は味の深み
を演出し、圧倒的だったのは南部小麦で、粉の味わいの深さと存在感で餃子
の味にボディを作り、その支えができたためにアンの野菜などの味をじっくりと
味わうことができるようになった。
旨みが引き立つのに、風味はむしろ軽く、身体にすっと入っていく。
私にとってだけでなく市川さんにも衝撃的だったようだ。
以降、微調整を加え、名前を「ひたむき餃子」として(ひたすら餃子という案
もあったけれど、「ひたむきの方が浮ついていなくて、語呂がいい」というお母
さんの意見で決まった)、晴屋とへいはちの店頭に並べることになった。
それにしても面倒を厭わず、試作品を何度も作りすぐに持ってきてくれる市川
さんのエネルギーには驚かされる。
作ることが根っから好きで、自分で納得するところまで、何度でもやらないと気
がすまないらしい。
餃子作りも失敗することがあり、何度も捨てているという。
品質には徹底したこだわりを持ち、ある意味強情というところもある。
冷凍の餃子の賞味期限一ヶ月というのは、私たちの常識からすると異常に短
く、扱いにくい。
晴屋に入荷可能な他業者の場合、3~6ヶ月間、長いものでは1年位あるも
のもある。
それでも市川さんは「売らないで家庭の冷凍庫で保存して試してみてから」
と言って期限を変えてはくれない。
自分で納得しないとどうしても前に進めない。
「餃子ですからね。ばか高いものはどうかと思うんですよ。アスターでは1個
200円でした。けれどあんまり安いのもどうかと思うんですよ。」
一生懸命作っている物をそれなりに評価してくれる人にしか売りたくないし、
ぜいたく品として高く売れればそれでいいというものでもない。
そのあたりの感覚は晴屋と近いものがあり、どうもおへそがちょっと横につい
ているけれど本当はこっちが正解なんだという姿勢が共通していて、はじめ
から気があったようなのだ。
ラーメンは儲かると聞くけれど、やる気はないのかと水を向けてみた。
「餃子の皮を作る機械は本当は製麺機なんでいつでも作れるんですけど、
やらないですね。お客さんにもよく言われるんだけれど、それを始めたら餃
子を作れなくなっちゃう。凝り性なんで、それだけで一生懸命になっちゃいます
から。」
「へいはち」というのは先代のお父さんの名を引き継いでいる。
家族を養うため高校を中退して魚河岸で働いたお父さんは30歳ほどで近くに
小さな店を開いた。
それが順調で店を大きくするために今の場所を手に入れようと思ったが、吉祥
寺で商いをする地主は売る気が無い。
そこでお父さんは毎日吉祥寺まで出かけて世間話をしてくる。
ついに相手が根負けし「あの土地が欲しいんだろ。売るよ。」ということになっ
たという。
先を読む力があり、粘り強く続ける。
それは息子の貴史さんも引き継いでいる。
機械を新しくする時には、材料を持って何度もメーカーを訪れ、とことん説明を
受け、徹底的に試作を繰り返す。
今までの全ての皮作りの記録をとっていて、温度や湿度に応じて調合を変
えている。
そんな繊細で細やかな面もある。
そうした眼で店を見渡すと、この混沌も必然的で、一つの主張であるようだ。
「うちは見かけじゃないよ。中身だよ。」という市川さんの張りのある声が聴こえ
てくるような気がする。
これからも調理場にこもり、試行錯誤をしながら品質を上げ、味を洗練させて
いくことだろう。
とりあえず、アミエビとラウス昆布を使った肉なし餃子を提案してみたのだけれ
ど、これからどう展開していくかとても楽しみだ。

作る楽しさ耕す人たち  その17 オーディオ評論家 江川三郎さん 創る楽しさと切り詰めて到る豊穣

作る楽しさ耕す人たち   その17
オーディオ評論家 江川三郎さん
創る楽しさと切り詰めて到る豊穣

「畑違い」という言葉がある。
野菜や食べ物を扱う私達八百屋と、音楽を聞くための道具であるオーディオ
の評論をする人では、随分と遠いイメージを持つ人も多いだろう。
しかし、常識に捉われずに新しい事を追求し、作る楽しさと生きる充実を求め
るという意味では教わることも多く、共通点もいろいろとある。
私が生きる先達として、文字通りの意味で「先生」と呼んでいるのは、整体の
佐々木先生と、この江川三郎さんしかいない。
江川三郎と言う名前は、一般の人にはあまり知られていないが、国内よりは海
外での方が有名かもしれない。
オーディオの世界で、様々な問題提起をして、多大な影響を与えている。
電源やスピーカーの接続のケーブルで音が違うといい始めたのはこの人だ。
コンセントの差込の方向でも音の差も言い当てた。
それまでは、そんなことはあり得ない事と、誰も気付きも言い出しもしなかった
事を感覚で探り当て、抵抗を押して、問題を提起する。
今では科学的にも証明され、高級オーディオの製品の差込プラグには、必ず
接地側の表示がされている。
勇気を持った発言が業界を動かし、認知されるようになった。
スピーカーなどのケーブルも、音に違いがあると理解されると、様々なメーカ
ーが飛びつき、1mで数万円もするような太くて凝った作りの物まで現れた。
しかし、その動きにも江川さんは警告を発する。
太いケーブルが本当にいいものなのか?
そんなにバカ高いものが本当に必要なのか?
こうした態度は、少しでも高いものを売ろうとするメーカーからは敬遠されるこ
とになり、国内や雑誌では冷遇される。
しかし、海外の有名なメーカーの社長や技術者は江川さんを訪れ、知識を
吸収しようとする。
それでも向う方向はどうしても太くてこもった音だ。
「彼ら(欧米人)は、穴居(洞窟)生活が長いから、こもる音が好きなんだ。そ
れが音の好みに出ているんだ。」と、低く張りのある声で、バッサリ切る。
例によって、晴屋の台所で、よく食べよく呑み、よく話す江川さんとのインタビ
ューは、オーディオの原点から聞いてみた。
「昔、鉱石ラジオというのがあったんだよ。天然の石だよ。その表面を針で探
るとさ、天然のダイオード効果で、ワーッと音が出てくる場所があるんだ。戦争
中(太平洋戦争)、東部軍管放送っていうのがあって、空襲の情報収集って
いうのが、オーディオの始まりだね。
終戦の時、中学生でそれから高校とずっと神田(秋葉原)通いしてさ、ラジ
オが貴重な時代で、僕みたいな素人が作っても売れるんだ。」
その頃のオーディオ仲間で同級生に菅野沖彦という人がいる。
この人もまた著名なオーディオ評論家だが、好みは対照的で手の込んだ高
級品しか認めない。
大きな会社の重役の息子で、お小遣いに不自由したことはなさそうだ。
「他人のこと羨ましがってたらさ、人間ていうのはさ。
限られた中でなんとかしようっていう気持ちがあったと思うよ。
同じ事をするのが面白くないんだよ。
出てきた時に音が気に入らないのを、お金で解決するんじゃなくてね。
ぼくはかなり早い段階でケーブルの事を言い出したよね。」
昔、ローサーというスピーカーがあった。
導線に銀を使っているものがあり、音が良かった。
それがどうしてなのか追求しだしたのが、ケーブルの研究のとっかかりだ。
生演奏に接する経験の豊富さもあって、感覚で感じたことを率直に知的に展開
し表現する。
頭で作った既成概念や妄想に捉われて感覚が曇ることが無い。
右脳と左脳が常に連動して動いている感じがする。
少年のときめきや閃き、悪戯っぽさを秘め、かなり高齢の今も若々しさを失
わない。
過去を振り返ることも無いから、自分を権威で守ろうともしない。
普通この位の高齢のお年寄りなら、「私はこれだけのことをやってきた、これ
だけの人間だ」と主張しそうなものなのに、私だけでなく誰にでも、気さくで柔
らかく前を向いている。
誰でも自分の「音」を持っているが、江川さんの「音」は、余分なものが徹底的
に切り詰められ、研ぎ澄まされている。
耳に刺激のあるうるささや、音の響きに頼った曖昧さが無く、微妙なニュアンス
や音楽の骨組みが聞こえる。
私には時として、あまりの情報量の多さのため、音楽に集中出来ないほどの
豊穣さなのだ。
そして、比較的廉価で良質な製品を徹底的に使い切る。
音色の個性や、低音の量感などで誤魔化した高級品とは対極の世界だ。
しかし、オーディオが文化としてなかなか本当に成熟しないのも、道具として
完成せず女性に受け入れられないのも、まだまだ余分な要素が多いからだ
と、江川さんの追及は続く。
「松橋さん、私は生涯をかけて、モノラルを広めようと思っているんだよ。」
オーディオ装置の代名詞にもなっているステレオという言葉は、本来「うり二
つ」というような意味だ。
それが右と左、二つの同等の装置で音が出て情報量が多くなり、スピーカ
ーの間の空間だけでなく、より広い音の再生が可能になったと思われている。
しかし、それでは空間情報が多くて、本来の音楽のダイナミズムが感じられ
ないと江川さんは言う。
モノラルは、一個のスピーカーから、一つの音だけを出す。
その方が、音楽の立体感や生々しさが、感じられるというのだ。
また、常識に真っ向から立ち向かおうとしている。
私もスピーカーの中央で音を聴くと頭が痛くなることがあるので、左右のスピ
ーカーの外側で聴くことが多い。
何気ない行動に意味があると分かり、納得する。
作る楽しさについても聞いてみた。
「人間に元々あるもんじゃないの。
創造の創だよね。
全く同じものでも、自分なりのものを創るうれしさだよ。
創るって言ったって、別に財産が失われるわけじゃない。
やればいいんだよ。」
全力で向って、悔いを残さない。
だから失敗しても、また次に向える。
何度かお邪魔したことがある江川家の広い居間は実験場だ。
工具や材料など、私には興味津々のネタが所狭しと積み重なっている。
小じんまり、まとまろうとはしない。
健全で、陽性の混沌だ。
ここは、「江川工房」も兼ねている。
業界に思う製品が無いと、自分で製品化して「江川工房」の名で、手が込ん
で量産に向かない手作りの製品を提供している。
私の江川さんとの付き合いは10年以上前、秋葉原で毎週開かれている「イベ
ント」と呼ばれている勉強会でだった。
オーディオ装置を売っていた経験もあり、スピーカーの自作もする私の「耳」
は、江川さんに買われているようだ。
今回のインタビューの時、新発売のケーブルを持ってきた。
「松橋さん、これ置いていくから、試聴して、評価してみてよ。」
頼りないほど細い無方向性の無酸素銅の銅線に金コロイドという粒子を塗っ
て、固いビニールで皮膜し、よじってある。
価格はピンケーブル1mペア、スピーカーケーブル2mペアそれぞれ2万円
弱!!
何日か後に試してみて、驚いた。
低音が締まり、高音のうるささやざらつきがとれた。
まるで別物ように軽々と深く音が出て、音楽が息づいて聞こえる。
返さなくてはとケーブルを外そうとしたが、もう我慢出来ない。
早速その場で電話して譲ってもらうことにした。
オーディオ製品は、レベルを上げようとすると大体10倍の価格を出さないと
納得できるレベルにならない。
私の小遣いには高価な買い物だが、定価18万円の私のアンプが、数倍の
レベルになると思えば、効果の割には安いといえる。
今までの、様々に工夫された高価なケーブルたちが、全て小手先のごまかし
にすぎなかったと思える程、交換した時の音の差は歴然だった。
というわけで、私はすっかり江川先生に、してやられた。
けれど、新しい発見と接する喜びがある体験は楽しい。
批判精神を持ちながら、否定ではなく、何かを作って解決する姿勢があるから、
はめられても、悔しいよりは、また次を期待したくなる。
混沌の中にある意志、切り詰めて行きつく豊穣。
これからも江川先生のご活躍を望むと共に、押しかけの弟子として、買わされ
たけれどまた何か勧めて欲しい、そう思われる八百屋になりたいと思う。

江川工房に興味のある方は、インターネットで「風雲 江川工房」を検索して 
下さい。私のケーブルの試聴の感想ものっています。
(この文章は2007年(晴暦27年)に晴屋通信に掲載したものです。)

作る楽しさ耕す人たち  その16 さかもと助産所の坂本深雪さん 満ちる月、充ちる生命

作る楽しさ耕す人たち   その16
  満ちる月、充ちる生命

小金井街道から奥に入った住宅地のどんづまり。
普通の家にしか見えない、地味な作りだ。
しかし、中は意外なほど広々とした、快適な空間が広がっている。
グリとグラの絵があって明るい雰囲気だが、ポップさよりは澄んで静かな気
を感じる。
ベランダからは、黒目川の遊歩道の緑地が伸びやかに広がり、桜の木々
に季節のうつろいを楽しめる。
望んでも、なかなか得ることが難しい素晴らしいロケーションだ。
東久留米のさかもと助産所はまだ長い歴史は持ってはいない。
しかし、坂本さんは、草分けの三森さんや、もはやカリスマといえる国分寺
の矢島さんに師事し、昭和病院をはじめ公立の病院で助産婦をしていたベ
テランだ。
それでも、まだ41才。
この年でそれだけのキャリアを積むには、お産との早い出会いがあった。
色彩や空気感を感じさせる感情豊かな表現で語ってくれた。

「この前気付いたんですけど、私の母が私を産んだときに悲惨なお産で、ほ
っておかれて、二度と子どもは生まないって言ってたんですけれど、妹が欲
しいとか言ってたら出来て、今度はいい病院で産みたいとか言ってたら、精
神性無痛分娩ていうラマーズ法の前身なんですけれど、それを取り入れて
いる長橋産婦人科というところで産んだんですね。いいお産だったらしくて、
それが記憶の彼方なんですけれども、叔母が「あんたはお産婆さんになるっ
て言ってたよ」って言うんですよ。
それで、高校の生物の時間だったんですけれど、メンデルの法則というの
があったんですよ。ショウジヨウバエで染色体がこうなるっていうのがあって、
先生が「君たちはタンパク質なんだよ」って言うんですね。えっ、タンパク質っ
て思ったときに、あの子も、この子も、って思って、女性の身体に興味が湧
いて、基礎体温を測り始めたんですよ。それで面白いの、自分の身体が。生
理になるとポンと上がり、ポンと下がり、波があるの。それで「ギャルズ・ライフ」
っていうヤンキーの雑誌があって、あんまりひどい内容だから国会で追及され
て廃刊になっちゃうんだけれど、その雑誌の中で鈴木ミケさんていう人が、
体のコーナーの相談員で出てたんですよ。その答えが今までのと違って、
面白くって、こんな相談にのれる職業に付けるといいなって思いながら、友
達の相談にどんどんのったんですね。面白いから。でも、友達で妊娠しちゃ
った子がいたんですね。そしたら、今まで話していたその子が全然違う人
に見えちゃって、こんな時ちゃんと相談にのれるといいなって思って、だけ
ど、お医者さんでも、看護婦さんでもないんですね。そうだ助産婦さんって
思い始めたのね。赤ちゃんが可愛いとか、出産に興味があってとかじゃな
いんですよ、私の助産婦っていうのは。それでその後、助産婦について無性
に調べてみるのね。中央図書館に、「お産の学校」って言う本があって、これ
は凄いと思って、三森さんに電話したんだよね。「すいません。私、妊娠して
ないんですけど、お産の学校行ってもいいですか?」って言ったら、「ああ、い
いわよ」って言ってくれて、緑色の電話の前でドッキン、ドッキンしちゃって、
変な高校生だったんですね。それで、助産婦になろうって思ったんですね。」

本人曰く、「中学時代は劣等感の塊りで、おちゃらけた高校に入ってしまっ
た」。
そこから看護学校に入学するには、相当ハードに勉強したに違いない。
けれど、自分が苦労した話は一切出てこない。
どんな助産婦を目指しているのだろう?

「極力普通の人でいるっていうことですよ。要するにカリスマにならないって
いうことが仕事上の信念なんですね。助産婦って、たかが助産婦って思って
るんだよね。世の中で大切な仕事なんてたくさんあって、助産婦はたまたま命
の現場にいて、重さがある仕事なんだけど、世の中いろいろな仕事があって、
助産婦より凄い仕事もたくさんある。」

信念が強く、動かしがたい事実以外は感じて欲しくないと思っているようだ。
謙虚というよりは、人間として生きる上での意地や、助産婦としての誇りを感
じる。
昔とお産の仕方が変ってきたということはあるのだろうか?

「三十年前、三森さんの時代は、自分のケツは自分で拭くってう命の持ち方
ですね。今のお母さんたちは、共依存関係になりたがる人が増えてきてるか
な。でもだめだったら、私ゴメンナサイ出来ないって言っちゃう。その中で私
の言葉を受け止めてくれる人は、自分で力を出せる人なんですね。変な話、
リスクのある仕事なんで、すごい生意気な言い方なんですけど、今の時代
に自分の好きなお産の出来る人は、自分で立っている人なんですね。
私が相手に何かを伝えたいと思った時に、相手が自分で気付かなかったら、
変わらないじゃ無いですか。気付いてもらえるよう努力はするけど。」

坂本さんには、中学生の男の子と、小学生の双子の女の子の3人の子供
がいる。
自分のお産はどうだったんですか?

「矢島さんのところで産んだんですけど、私は予定日より二週間以上すぎる
んですよ。頭ががちがちに緊張してたかな。それで、痛いんですよ。子供み
たいに「いたいんです~」とか言ってた。
それでも、カリスマといわれる矢島さんが何をするか見てみたい。手を見たい
んですよ。」

一人目は自然育児にはまり、いいと言われるものは全てやってみた。
保育園にも要求をいっぱい突きつけた。
その後の双子の時はそんなことは言っていられず、「何でもいいから預かっ
て」という感じになった。
晴屋と出会ったのはその頃だ。

「保育園で松橋さん(私)の奥さんに、話を聞いてもらうと「そんなこともあるわ
よね~」って受け流してくれるんですよ。力が抜けて楽になった。
何年か前に「食べ物を良いとか、悪いとか言うのは不遜だ」って松橋さんに
言われたんですね。(本人は記憶が無い)十年前の私だったら、でも、とか
言ってたと思うんですけど、その時ストンと言葉が落ちたんですね。来る人を
あるがままに受け入れなきゃいけない、っていうか。商売だしね。あんまり窮屈
じゃなくて大丈夫なんだなあとか。自分が子供育てるときになんか、こだわ
りを持ったとか無いんですけど、子供見てたら育つんですよね。すごく可愛
いいもの。うちの子、いい子なんですよ。あり難いっていうのかな。子供って
無条件に愛してくれるじゃないですか。絶対的信頼感とか、そういうものを交
換できる相手だなっていうのが、換えがたいっていうか。その中で、いいとか
悪いとか言うのは不遜だなっていうのが、その言葉なんですね。」

さかもと助産所では、入所している人の食材を晴屋でまかなってくれている。
お客さんの中でも何人かそこで産んだ人がいる。
何を好きかも分かっているので、ほんの少し差し入れをしたりもした。

「嬉しかったですね。こんなところで、繋がっていて、見ていてくれたんだな
あって。
赤ちゃんが入院している時の(助産所の)空気って小さいんです。空気が細
かく震えている。ドヨーンとしていない。玄関抜けただけで、お話しているみた
いな感じですよ。
来る人もいろんな人がいて、思想、宗教、信条違う人が隣で仲良く話してる。
死というのはいろいろあるけれど、生まれるっていうことを喜ばないものは無い
ですよね。」

助産婦をやる楽しさは?

「人が変っていく姿かな? その面白さは、なんたることかっていう感じですよ
ね。だから来た人を嫌いになれない。いろいろ文句はあるんですよ。でも、
楽しいんです。人間が好きなんです」

さかもと助産所はホームページを持っている。
何故感想文を載せないのかとみんなに言われるそうだ。

「そういうのは、嫌なの。はじめから、感動求められても困るし。いっしょに
何かやって、達成するのがいい。」

一見素っ気無く、自分の色は前面には出さないと言いながら、溢れ出てく
るものは止まらない。
単に優秀な助産婦というよりは、矢島さんの次の世代を担う、新しいタイプ
の「お産婆さん」の出現だ。
矢島さんを含めて自宅出産経験が四度ある私だが、この人とだったら真剣に
出産と向き合えると思った。
出産や育児の相談も受け付けている。
連絡先は、042-471-0388 。
ホームページはhttp://www.cam.hi-h
o.ne.jp/sakamoto_miyuki/。
(この文章は2006年(晴暦27年)10月に晴屋通信に掲載したものです。)

作る楽しさ耕す人たち  その15 子ども園の吉良創さん 教育が紡ぐ身体と感性

作る楽しさ耕す人たち
その15 子ども園の吉良創さん
 
東久留米の水源であり、清流にしか棲まないほとけどじょうもいる、緑豊か
な南沢の湧水。
シュタイナー教育の流れを汲む幼児教育を実践している子ども園は、その
近くにある。
晴屋でも開園当初から、食材の注文を受け、届けている。
吉良さんは、ドイツ・ヴッテンにあるシュタイナー幼児教育者養成学校で
教員としての研修と、シュタイナー特有の楽器ライアーの演奏も学んだ。
帰国してから、生まれ育ったひばりが丘の近くに子ども園を作り、現在も園
の教員を続けている。
背は高くないが、意外にがっしりした体躯だ。
整体を少しかじっている私から見ると、稀に見る体力としぶとさを持っている。
普段のソフトで穏かな表情からは感じられない、芯の強さがある。
幼児教育の持つ意味から聞いてみた。
「幼児期最初の7年間ていうのは、織物でいうと縦糸を張る時期。小学校の
時期はカラフルな横糸を張る時期。
でも、いい布が出来るかどうかっていうのは、縦糸がしっかり張られてなくち
ゃだめだ。それで次の時期は織りあがった布を切って縫って、大人になって
それを着て生きていくんです。それをずっと着ていく時に、すぐに穴だらけ
になっちゃうのもあるし、だんだん馴染んでいく人もいる。」
シュタイナー教育ってなんだろう?
「子どもの成長発展にふさわしく接していく。乳幼児期の子どもは真似をす
る存在だから、大人が手本を示していくということ。」
その中での幼児教育の位置は?
「身体を作ることです。体という自分の家に一生棲んでいく。」
言葉は具体的にどう使うのだろう?
「意味を持たせて使う言葉と、単なるおしゃべりは違う。小さい子がブランコ
に乗ってる時に、「危ないからしっかり握っていなきゃ、落ちて怪我するでし
ょ、ちゃんとつかまってなさい」とくどくど言っても伝わらない。情報として、
目の前で「ギュッとにぎってなさい」という言葉の力にその仕草を合わせる
ことで言葉と子どもが結びついていく。
自明の事を、全身全霊で伝え、言葉と状況が結びついた時に伝わる。子
どもに接するときは、抽象的な言葉はできるだけ使わない。目の前で実際に
具体的に行為する。言葉でなく行為で導く。子どもは動いている存在だから、
言葉が入ると、動きが止まってしまう。子どもによっては、先にこれからこうな
ると言ってからの方がいい子もいるけど、でも大体の子には論理や因果関
係は極力言わない。子どもには、今すべきことを端的に伝えた方いい。
言葉が少ない分、言うときは、口先では言わない。言ったときには、それし
かもう可能性が無い。「でもどうのこうの」って子どもが言ったときでも、動か
ない。壁になれる。それで動いちゃったら、また動くんだなと思われちゃうし
ね。
発する言葉とその人が結びついているかいないかっていうのは、今の子ども
は確実に見抜きます。社会的に言っておかなくっちゃという言葉と区別して、
物を見極めた言葉はちゃんと伝わります。昔は親や先生の権威で子ども
を従わせていたけれど、今の子どもの方が進化している。今の人間の方が、
表面的には悪いことが出てきているけれど、ずっと進化していると思う。
人間は常に進化し続ける存在だと思う。」
話す言葉が緻密で、隙が無い。
自分の確固たる世界があり、他人が入り込む余地は無さそうだ。
何かにとりつかれ、凝り固まってそうなっている人は多い。
吉良さんの場合は、目がつまった柔軟な構造が構築されている。
私が感じられるのは、ごく一部にすぎない。
ただ、感性と知性で織り込まれた世界が深く存在することを感じる。
今回のインタビューをしてみて、私は吉良さんのことを理解していない、とい
うよりは理解出来ないことがよく分かった。
しかし、録音したテープを何度か聴くうち、気が付かなかったことが少し見え
てきた。
「ギュッと握って」という言葉には、ちゃんと力を込めて全身全霊に近い感覚、
私風に言えば気合を込めて、発している。
吉良さんにとって私は、気楽なことしか話さない顔見知りにすぎないが、
インタビューのそこここに真摯さや誠実さを現していた。
自分の感性への健全な執着と、人間への信頼、教育の効果への自信も、 
垣間見れる。
吉良さんのお父さんは自由学園の有名な教師だった。
吉良さん自身もその教えを受けた、自由学園の出身者だ。
縦糸がしっかりしているというか、いい意味で育ちの良さをがある。
私は、子育てについてほとんど語ったことが無い。
自宅出産したり、私なりに一生懸命子育てしてきたけれど、まだ結果がで
ていない。
4人いる子どものうち、一人は独立して子供もいるが、後の3人は自分の生き
る場所や術を見つけていない。
次の世代が次の世代を育てるようになれば、子育ては成功したと思える
だろう。
しかし、吉良さんは自分が選んだ方法に確信がありそうだ。
シュタイナーのセオリーで育った大人たちを目の当たりにし、また自分が受
けた教育の力も信じられる。
私のように、社会や教育に対する不信から出発した発想とは全く違う。
その下地の上に、自分ならではの世界がくみ上げられている。
コンプレックスや、その反動でのプライドが無いのは、育つ途中での感性
のボタンの掛違いが無いからだ。
吉良さんには人間の内の動きが見え、それを動かす言葉を発することが出
来るという才能があるように感じる。
その力を幼児教育に注いでいる。
もっと現代的な他の仕事でも楽にこなせるだろう。
持って生まれた力をよりよく生かすのに、教育というものがどれだけ大切か
身を持って示している。
もちろん、何の不満や屈折無しに育つということはありえない。
学生時代はサッカーとロック、特にキーボードの演奏に夢中になった。
三十年くらい前だから、そんなことに一生懸命な人はほとんどいない。
人と同じはいやなのだ。
学校を卒業しようという時にも、人と同じでなく、親とも違う仕事とということで
選んだのが、シュタイナーの幼児教育だった。
キーボードの趣味はそのまま、ハープの一種で自然な響きを生かしたライア
ーという楽器に結びつく。
ライアーの名手としても、その世界で評価されている。
試行錯誤したことが、真っ直ぐに人生に生かされている。
資質といい、育ちや経歴といい、今の仕事は天職であるかもしれない。
天職は与えられるものでなく、作るものでもある。
そういった意味では、次の世代にどう伝えていくかで、吉良さんの真価が問
われることになるだろう。
私も若いとき、数冊の本を読み、シュタイナーの世界に少しだけ近づいた
ことがある。
シュトットガルトから来たオイリュトミーというシュタイナー独特の舞踏のよう
なものの公演にも行った。
強い集注に支えられて、美しく力強かった。
ゲルマン民族の強い肉体と明確な感受性の上に成り立っている。
日本人の柔軟性や懐の深さといった感覚とは異質のものだった。
シュタイナーをヨーロッパ文明の最後の華だと思い、素晴らしいと思いなが
ら私は別の方へ向った。
私の狭い知見の範囲だけれど、日本のシュタイナーの信奉者たちは理念
が先に立ち、身体が付いていっていない人が多い。
その中での吉良さんの雰囲気は違うものがある。
ヨーロッパに対する憧れのような、地に足の付いていない感覚が無い。
極めて日本的な感覚、外に向う集注でなく内に向う集中の感覚が強い。
集注は能率や効率を求め、時に排他的になる。
集中は全体をあるがままに感じ、瞑想と覚醒を同時にしている。
「ギュッと握ってなさい」という言葉を発する時の気合は武芸者に近い物
を感じさえする。
その感覚でシュタイナーを日本で生かしていったら、今までに無いものが
できるかもしれない。
縦糸をしっかり張った子どもたちが、個性を伸ばし、花を咲かせ、実を付ける
時はいつになるのだろうか。
最後に理想の教育とは何か、聞いてみた。
「どの先生も、その子を育てるのは初めてなわけですよね。出来るかどうか
分からないけれど、それぞれの子どもに相応しい、子どもがどう育っていき
たいかということに合わせた教育ですね。」
子ども園では、一般の人向けの勉強会や体験の会も開いている。
興味のある方は、ホームページを見て下さい。
http://www16.ocn.ne.jp/~msteiner/
ライアーに興味のある方は
http://leier.web.infoseek.co.jp
(この文章は2006年(晴暦26年)9月に晴屋通信に掲載したものです。)

作る楽しさ耕す人たち その14 晴屋の野菜の仕入先2・OFJの新倉雅晴さん

作る楽しさ耕す人たち
  晴屋の野菜の仕入先2・
OFJの新倉雅晴さん
語り口は、ソフトで洗練されている。
現在、58才。
武道や山で鍛えた体躯に、円熟した表情、ウエーブのかかったロマン
スグレーの髪。
決して則を越えず、相手の立場を重んじての話に、説得力がある。
しかし、騙されてはいけない。
この人には、言葉と違う内側の動きがある。
決してそれを前面には出そうとしないが、こちらは圧力としてそれを感
じる。
晴屋の「もう一つの」野菜の仕入れ先、オーガニック・ファーム・ジャパ
ンの代表、新倉さんは多彩な経歴を持っている。
大学の工学部を中退後、旧電々公社に入り、山を楽しみながら、
組合運動をやり、5年経って結婚し、「社会的責任を考えるようになって、
こういう所にいたら駄目なんじゃないか」と、服部栄養学校で調理を
学び、コックにはならずに、創業間も無いケンタッキー・フライド・チキ
ンに入社。
「ビジネスに限らず、世の中や社会の構造というものを教えていただい
て」、12年間一線で活躍し、かなりの高給取りに。
「創業時で面白かったですけれど、命の切売りをしていて」、週一度寝
顔を見るだけだった小学生の長男の「家にはお父さんが居ない」という作
文がきっかけで仕事を辞め、相模大野でレストランを開業。
こだわりの食材を探すうち、ポランの八百屋「自給の村」や無添加ハム・
ソーセージの「湘南ピュア」と出会う。
「こういう人たちがいるんだ。ビジネスとはほど遠い人たち。よくこれで
やっていらっしゃる。寝る間も惜しんで仕事をしているのは同じですよ。
得ている報酬が違う。社会的に得ている評価も違う。それはとても興味
をそそられました」
親しくなった「湘南ピュア」を自転車操業から脱出させ、以降、この業界
の様々な部門の再建に携わる。
野菜の仕入れ担当として、JACの最後にも立ち会った。
経歴だけを見れば、有能なビジネスマンであり、社会人である男が、もう
一つの世界に出会い、橋渡しをしてつなげ、社会的自立を手伝った、と
いうことになる。
しかし、そう簡単に割り切れるものではない。
「学生運動、労働運動、サラリーマンと、ずっと世の中に反抗して、ずっ
と負け勝負。悔いはないんだけど。」
「軌道に乗ってくると、すぐに飽きちゃう。食いしん坊と好奇心が強いの
がとりえ。」という言葉で垣間見ることが出来る、内側の動きがある。
では倒産したジャパン・アグリカルチャ・コミュニティ=JACの評価から
聞いてみよう。
「ある程度、全体をコーディネイトできる人がいて、数字を分かるだけの
人がいれば、いい線いくだけの下地があったと思うんですよ、過去の
財産の中に。いい生産者も応援してくれていた。スタッフの力量はひ
どいものだ。ほとんどが余剰人員で経営されていなかった。生産者と小
売を食いつぶしていたに過ぎない。よくここまで続いたなと。」
JACの生産者の状況はどうだったでしょうか?
「孤立してます。生産者同士の横の繋がりも無い。もう一つは、自分の
範囲内での勉強しかない。技術力は、彼らはあるって言うんですよ。そ
のやり方は知っているって彼らは言うんですけれど。実際にはやらない
し、やっても長続きしない。それでもこちらも、なかなかストレートには言
えない。でも、皮肉って言ったりはするんですよ。」
私の知っている範囲では、生産者に厳しいことも言っているようだ。
けれど、生産者の新倉さんへの信頼は厚い。
約束した数量は必ず取るし、出来ない場合はうやむやにせず、きちんと
説明をする。
JAC倒産でほとんどの生産者は被害をこうむったが、その時の野菜の
責任者だったのに、未だに信頼が続いている。
実は晴屋も、JAC倒産後、どうしても確保したい野菜があった。
小塙さんの蓮根と、堀田さんの野菜だ。
電話で出荷を依頼したら、小塙さんは受けてくれたけれど、私が一番
信頼する堀田さんは「OFJにまかせてあるから」と断られてしまった。
堀田さんの野菜を売るにはOFJと付き合わなければならないのか。
メルカウーノと一部の直送野菜で、一応全種類は揃っていたのだけれ
ど、少し落ち着いてから、東大和の農家と住宅が混在し、少し奥まった
ところにある、OFJのこじんまりした倉庫兼事務所を訪ねた。
新倉さんに会うのは、この時が二回目で、初対面はりんごの生産者、故
小平範夫さんを、東京での「偲ぶ会」での会場だった。
その時はまだJACの社員だった新倉さんに、「JACは流通の都合で
野菜を早採りして鮮度の悪くなった野菜を扱ってる。品質を優先しなけ
ればならないのに、それでは本末転倒だ。」と苦言を言った。
いろいろな生産者のところで、発送先に晴屋の名前を見つけ、晴屋が
野菜の卸をしていると誤解もしているらしかったので、あまりいい感情を
持っていないかと思っていたのだけれど、誤解はすぐに解けて、それ以
来、OFJの野菜も晴屋に並ぶようになった。
メルカウーノとOFJは、生産者との付き合い方で、ある意味対極的な
違いがある。
メルカウーノは基本的には、生産者団体と付き合っている。
数量の内部的調整や品質の責任もその団体が負う。
そのためか、価格的に安めの物が多い。
OFJは旧JACの流れを汲み、個人の生産者との付き合いだ。
私もJACのメンバーだったこともあって、品質の予想が付きやすいし、
慣れ親しんでいる。
しかし、価格は高めの物が多い。
農家の生活状況まで考えて、仕入れる量や価格を決めざるを得ない。
これからOFJは、どういう方向に向っていくのだろう。
「会社っていうのは、社会的ニーズがあれば存続できる。なければどん
なに頑張っても存続できない。
一般の流通が潰れている。卸が成り立つとは思えない。存続の意味が
無い。流通の機能は必要でも、社会的インフラが整備されるほど、卸
の必要が無いんですよ。
応援して下さる農家さんの農産物を流せるマーケットをどう構築していく
かっていうのが、課題だと思っているんです。
でも、いい物を作る農家さんほど、作ることに専念してますから、売る
ところまではやはり出来ないんですよ。売ることのお手伝いをして、手数
料を農家さんから貰う。いい資材や種も確保して、小さな一つのサイク
ルを作る。本来のJAの仕事だったら意味があるなと思う、って考えて
いるんです。他に出来ないことをやりたいなっていうのがあるんですね。
小さい方がいい。専門店だから、生き残れているんですよ。そういう売り
方に文化的レベルの高い人たちはシフトすると思うんです。説明商品
として売るマーケットという物を作れると思うんです。どこでも出せる、どこ
でも売れるっていう商品じゃないわけですよ。そうしていかないと町の
八百屋は無くなっちゃうだろうと思う。」
晴屋は、新しい生活文化を作ろうと目論んで、そのために必要なアイテ
ムを扱う店で、野菜は中心でも専門店では無いし、必ずしもお客さんの
ニーズに合わせようとはしていない。
少し路線に、違いがある。
しかし、商品の内容をきちんと伝えていこうという姿勢は共通している。
ムードだけではない、表面的な数字ばかりでない、野菜の実質や自然の
本質に迫れるような、より生きた情報を伝えていかなければ、多くの人た
ちはますます自然から離れ、安全な野菜はただの贅沢品になってしまう。
OFJのこれからの課題にしておきたい。
私がここまで要求するのは、OFJや新倉さんに対する強い期待がある
からだ。
それは、新倉さんの個性に負っている。
洗練され、充分に知性的な人であるけれど、それ以上に本能的な力
を感じる。
自分を守ろうとする自己保存本能ではなく、家族や人類全体の繁栄を
求める種族維持本能だ。
強い物に逆らい、弱い物を守ろうとする、世の流れに逆らう原動力とな
っている。
そして、優れた知性と強い本能が乖離しないで一体で動く、現代では
極めて稀な人だ。
厳しいことを言われても、生産者がついてくるのは、本質的なところでの
信頼があるからだ。
これから、この力をどう使うか?
晴屋にとっても、この業界にとっても、大きな影響がある。
小さい中にある充実こそ、本物でありえると、改めて感じた。
(この文章は2006年(晴暦26年)6月に晴屋通信に掲載したものです。)

作る楽しさ耕す人たち その13 健全な「流れ」の先 晴屋の野菜の仕入先・メルカウーノの森田隆さん

作る楽しさ耕す人たち
その13 健全な「流れ」の先
   晴屋の野菜の仕入先・メルカウーノの森田隆さん

「これじゃ、書きにくいよ、モリタ君」インタビューの前半、経歴を確認し
ながらの話の途中、思わず呟いてしまった。
写真⇒食えない⇒ほんやら洞(当時西荻のナモ商会の2階にあった
運動体の拠点のような喫茶店)の直営農場で豚の堵殺人がいない
⇒面白そう⇒喫茶のカウンターに入る⇒ナモ商会で野菜を売ってみ
ないかと言われる⇒引き売りを始める⇒仕入れセンターJACに人が
いない⇒じゃあ暫く行くかとJAC のメンバーになる⇒野菜と肌が合い
生産者と流通の窓口になる⇒耳学問・目学問で知識を貯える⇒
全国の生産者と口八丁・手八丁でやりあう⇒一年間休職しスペイ
ンでチーズなどの農産物の勉強⇒帰国して数年JACを続けながら、
新しい技術やスタイルが生まれないだろうと限界を感じる⇒JACを辞
め生産者団体の顧問⇒野菜スープがブームになる⇒太いごぼうが
50t余っている生産者がいる⇒東京で売りさばく⇒卸し問屋メルカ
ウーノ(ラテン語で一番の市場という意味だそうだ) の誕生⇒青梅の
アパートの一室を事務室に野菜のセット販売を始める⇒野菜を中心
に豆腐や肉、魚などの安全な生鮮品を中心とした品揃に限定した
卸問屋としてひとり立ち⇒JACの倒産⇒扱い量の増加
どこにも陰りも、屈折も無い。
本人も言うとおり「全然何も考えて無い。流れよ、流れ。」なのだ。
内なる集中に光を当て、言葉に置き換えるのをパターンとしてい
る私には、歯がたたない。
若い頃ラクビーをやって鍛えた体にスキンヘッドの頭がのっている。
彼の言葉は曇りなく流れて溢れ、逞しく前進する。
音楽家で言えばヘンデルや、エルトン・ジョンか。
苦労や努力もしているのに、痕跡を見せずに、見事にエネルギーを開
放する。
そして人並み外れた健全さと真っ直ぐさで、人を巻き込み納得させ
る。
景気はどう?
「小売店は厳しいよな。商店がだめなんじゃなくて、専門店が求め
られてる。自然食の業界も元来専門店だったわけだよ。それが、色
んな品揃えとかなんかで専門店から外れてシステムとして販売する形
になっている。」
薄まっているわけだ。
「ある意味時代の寵児であり、先端を行く仕事だったわけだよ。スタート
した当時、環境問題を挙げて仕事してたやつなんか誰もいなかった
分けでしょ。先頭走っていたのが、二十年も三十年も経つと、みな真
似され追い越されてしまっている部分もある。」
そうだよね、俺もずっと同じことやってる。
(晴屋では、野菜の他、三陸水産の魚、ぼくじょうちゃんの豚肉、豆腐
等を頼んでいる。割合としては他のどこより多い)
JACが倒産して、それまではNo2の位置で全て揃って無くても、いい物
を扱っていればいいという立場から、メインになったけれど、何か変った
ことは?
「全面的に全てをっていう感覚は俺の中には無いんだ。小売店が
幾つか持っていればいいとっていうのがあるの。例えば一つ産地を
持っていると、いい時だけじゃないんだよ。二十数年前始めた頃だっ
たら、あったら何でも良かったけどそんな時代じゃない。するべきじゃ
無いと思うのよ。幾つかの選択肢があってやらないと、言い訳をする部
分が出てくるわけよ。直していくことを産地と一緒にやらないと駄目な
わけだよ。たくさん買ってもらうのは嬉しいよ。だけどそれだけでする
という期待はしてないの。」
小売店にとっても選択の自由を認められる代わり、自立した存在にな
ることを要求される厳しさもある。
流通センター主導で、小売店が従っていくということが多いのとは
対照的だ。
その健全さはどこから来るかね?
「性格のよさからか?」
性格の悪さからかもね。
「やっぱり面白いからっていうのがあるわけよ。今年の空豆は(天候の
せいで)マズイなーとか、野菜が美味しい時があったり、まずい時があ
ったりするのが面白い。どんどん若い奴も出てくる。和郷園だとか昭和
村野菜倶楽部だとか、次のテーマを持った若い連中が出てきてる。
一方で長野県の安岡村という中山間地の爺さん婆さんばっかりの村と
も、日本の農業の一つの形として付き合っている。イチゴの新しい品
種を作ろうかともしてる。日本の農業の中で自分たちが何が出来るかな
と考えていかないと。」
野菜ということだけじゃなくて、人間を含んでの農業なんだね。
メルカの今後の課題は?
「事業体としては赤字にならないように維持するっていうことが一つだ
よな。もうひとつは五年位前から、問屋は必要ないなっていうのがどこ
かにあるわけ。メルカウーノ必要無いって思っているわけ。問屋の機能
っていうのは三つあるわけ。決済機能、専門知識、分化機能、この三つ
だと思っているわけ。それで俺たちさ、決済機能はそんなに無いわけ
だ。金無いから。それで分化機能っていうのは、今いくらでも物流が
充実してきて宅急便で出来るようになった。ということは会社として、問
屋として必要悪なんじゃないかと思っている部分もあるわけ。これは
常に自分を否定した立場で見てるね。それで産直だから、出来れば
ダイレクトにやれれば一番いい。それなら俺たちがここでやる理由が
あるのか?長野の山の中にいったっていい。いつまでもメルカウーノが
問屋としてしゃしゃり出なきゃいけないっていうのは考えなきゃいけな
いと思うよ。」
小売も必要悪かもしれないよ。
「そうじゃないと思う。店に買いに行くのは楽しいから行くんじゃない。
楽しくない店なんか絶対行かないよ。調達だったらネットでいいじゃ
ん。いくらだって出てくるよ。買い物に行くっていうのはコミュニケーショ
ンしたいとかいろんな意味で行くわけさ。酒飲みに行くんだって、考え
てみたらあんなバカバカしいことは無い。楽しいから行くわけだよ。」
八百屋は飲み屋といっしょか。
「機能を優先している所はどんどん変っていかなけりゃなんないんだ
よ。」
私より4歳年上で、現在56才。
未だに変ることをいとわず、新しいことを受け入れる柔軟さ、若さがあ
る。
見た目的には悪役のプロレスラーだ。
人を人とも思わない押しの強さがるが、権威に服従したり、自分が権
威になろうとはしない。
自由を愛し、人といっしょに作る未来を考える暖かさがある。
そして現実の「流れ」を曇りの無い目で見切る力もある。
判断したことを伝え、形にする力も。
苦労や努力を、苦と思わないのは、必要なことをしているという自信と
実感があるからだろう。
その目は現実を見据え、地に足を付け、いつも前を向いている。
過去を振り返らないし、余計な先の心配もしない。
ある意味、野菜を通じて人と人を繋げる仕事は天職なのかもしれない。
全てのことを個人に帰結しようとする私の志向性とは対照的な健全さと、
明朗さだ。
久しぶりでゆっくり話し、もしかしたらしらふでは始めてだったかもしれ
ない。
前より少し親しくなれたような気がした。
翌日電話がかかってきた。
モリタ君が企画したホワイトアスパラが、あまり売れないという。
「委託でいいから。委託で。」だって。
というわけで、晴屋でもあまり馴染みの無いホワイトアスパラが店頭に
並んだ。
やれやれ。
(この文章は2006年(晴暦26年)5月に晴屋通信に掲載したものです。)

作る楽しさ耕す人たち その12 醤油が紡ぐ時間 キッコーゴの近藤功さん

作る楽しさ耕す人たち
その12 醤油が紡ぐ時間
キッコーゴの近藤功さん

五日市(現あきる野市)の近藤醸造に行くのは20年ぶり位になる。
朝9時前の一番混む時間帯なので、関越高速から圏央道に乗り継いで
いく。
ほとんど通ったことの無い圏央道は、まだ白い富士山がドーンと真
正面にと見えたかと思うと、トンネルに入り明滅するオレンジの光や水
銀灯の規則的な縦縞が疾走して、幻想的で未来的な雰囲気を醸し
出し、昔々(40年くらい前か?)のTV番組タイムトンネルを思い起
こさせる。
しかし、高速を降りて5分ほどで着いた武蔵増戸の駅の踏み切りは、
100円ショップのダイソーが出来たくらいで前とあまり変わっていない
ようだ。
少し安心し、ほっとした。
五日市街道沿いにある店と蔵を兼ねた工場も、全体には少しすっきり
したけれど、物を造る現場の活気や雑然さがあり、先日行った五人娘の
寺田本家の静かさとはある意味対極の荒々しささえ感じる。
近藤さんと会うのも本当に久しぶりだ。
醤油を注文するときなど、電話で話すことはあっても、忙しくなかなか
会う機会は無い。
二十数年前は定期的に顔を合わせていた。
私がまだ、今は無き仕入れセンターJACのメンバーだった頃、支払
いも遅れがちだったのに、注文するといつもにこやかに近藤さん自
身が醤油を持ってきてくれた。
背は高くないけれど、筋肉質のがっちりした体躯に精悍な表情をた
たえたている。
二十代の私には、まだ三十代の近藤さんがたまらなく大人に見え、
感謝で拝みたくなるような気持ちだった。
醤油の荷降ろしを手伝いながら何気ない話をするだけで、物静かと
いう印象しか持てなかったけれど、それが変わったのは、私がJACを
辞め、晴屋を始めてからお客さんたちを連れていった見学会の時
だった。
淡々と話をし、丁寧に応対してくれるのは同じなのだけれど、小さ
な子どもたちも沢山いて最後に川で遊んでいこうということになっ
た時、「川で遊ぶのは学校では禁止されているのですが、私も子ども
の時から入っているので大丈夫です。五日市で生まれた子どもが五
日市の川で溺れるはずがないと思っていますから」と言われた。
この人は繊細そうに見えて、案外と骨太な人なのだなと思った。
久しぶりに会ってみて、精悍な表情は少し影を潜め、穏かな柔らか
さが増した。
しかし、質実で剛健で実直な印象は強まり、私は思わず野武士をイメ
ージしてしまった。
野にあっても、誇り高く、静かなのに、常に強い物を持ち続けている
のだ。
「今でこそ醤油は無添加が普通ですが、当時は添加物入りが当
たり前でした。無添加で作ったらほんの小さく新聞で取り上げられ
て、それから消費者運動の人たちや長本さん(ナモ商会代表で
JAC発足前は仕入れもしていた)も来られるようになりました。当時
はこの辺りでも大豆を作っていて、私の家でも半分農業で生活して
いましたが、JACさんが売り上げを増やすのと一緒に私たちも伸
びていきました。」
JACが倒産して色々大変だったと思いますが、損害はどれ位あっ
たのですか?
「400万円位あったと思いますが、JACさんのおかげでそれまで売り
上げを伸ばしてこられましたし、こちらにも悪いところはあるんです。
それまでは昼は製造や配達、夜に請求書を書くなんていうことをし
ていて、ついつい請求が遅れがちだったし、いつも行けば小切手
をくれるという時もありましたから。
ナモ商会で出した債券もまだ(換金せず)記念に持っているんで
す。」
全く恨んでいる様子は無い。
話を聞いた場所は倉庫の2階の事務室で、すぐ隣で4人の事務
員さんたちが、お客さんからの注文を電話で聞き、数台のパソコン
に入力して伝票を作っていく。
その辺の管理は全部、四代目の息子さんがしているという。
店も、近藤さんは古い物が好きで置いたりぶら下げておいたりした
物が、ほとんど片付けられてしまったらしい。
ただ醤油の製造に関しては、まかせるのにまだしばらく時間がかか
るという。
キッコーゴの醤油の味は、私たちには馴染んでいると共に特別な
ものだ。
重くべたっとした味でなく、軽く旨みがない味でもない。
臭みが無く、すっきりしているのにしっかりした味のベースを持ち、ど
んな素材や料理にも邪魔せずに味を引き立ててくれる。
そしてほんの少しある微妙な酸味が味のフレッシュな風味を余計に
ひきたてている。
私が外食して一番困るのは、野菜の味が無いことではなく、なにより
醤油のまずさだ。
それでも作っていれば、うまくいく時もだめな時もあるだろう。
その差はどこにあるのだろう?
「醤油は香りが命です。香りが良ければ、色もいいし、味もいい。
麹の温度が高すぎても、低すぎてもだめです。もろみの管理も大切
で、手を抜くといい醤油はできません。」
他の醤油屋さんとどこが違うという話が出てこない。
まともな醤油を作っているところなら、どこでも一生懸命同じようなこ
とをしている。
案外、差は少ないかもしれない。
それでも、出来た製品にはっきり違いがあることが面白い。
その人の持っている雰囲気や個性が味に出るのだろうか?
規模を無理に拡大しない処に、一つの理由があるかもしれない。
スーパーや流通など大きな所が依頼してきても、全部断ってしま
う。
一人の人間の目の届く範囲に、仕事の範囲を定めている。
近藤さんはキッコーゴの三代目。
「自分で何かを決めてきたわけではなくて、周りの要請に動かされ
てきただけ」と口では言うけれど、先の無添加の醤油だけでなく、
脱脂大豆を国産丸大豆に変え、ソースの製造免許を取って取り組
み、60%が柚子という贅沢な原料のゆずぽん酢を作り、創業者近藤五
郎兵衛の名を冠した五郎兵衛醤油ではもろみと旨みの濃さの限界
に挑戦し、豊かな風味の醤油を作った。
人との出会いや、毎日の生活で感じたことをじっくり練り上げ取り組
んで新しい形を作っている。
今年がキッコーゴ醤油98年目。
後2年で創業100年だ。
「何かしたいと思っています」というだけでそれ以上語らない。
出来るか出来ないか分からないことを口にするのがいやなのだ。
その代わり、口に出したときは、やると決めていて、誰が何を言っても
やりきってしまう。
私にも同じ傾向があるのでよく分かる。
そんな父親を、四代目の寛さんはどう思っているのだろうか?
「父を見ていると忙しくて大変だなと思います。慎重型で頑固な人
です。子どもの時からずっと見ているので覚悟はしていましたが、
やっぱり大変な仕事です。忙しい中、私は整備と整頓をしています。
目標は会社として大きくすることです。売り上げを伸ばすというより、
五日市で立派な会社にしたい。まだそういう状態ではないです。喜
ばれ、誇りを持って出来る仕事にしたいです。」
33歳、覇気に満ちている。
私がもう忘れてしまった感覚だ。
それでも認めるところと足りないところを意識して前にすすもうとして
いるのは大人だ。
私が同じ年代にはもてなかった感覚だ。
私は一から積み上げてきたけれど、スタートは社会への不満だった。
寛さんには子どもの時から身に沁みつき、自分の一部になっている
歴史がある。
誰でも、自分でなければ出来ないことをしなければ、やっている意味
が無い。
しかし、組織は誰でもが出来る形が理想だ。
このバランスは難しい。
汗して作ったものを、適正な価格で
ほしい人に手渡す。
当たり前のことなのだけれど、これもなかなか難しい。
近藤さんが一見混沌とした中で、並大抵でない労力を注いで続け
ているのは、当たり前のことが当たり前であり続けるために、世の流れ
に棹差す、途方も無い努力だ。
しかし、それが人間のあるべき姿に基づいている限り、人から人へ、
親から子へ受け継がれていくだろう。
懸命に作ったものが評価され、手渡されていくのは楽しい。
発酵は腐敗と反対に、物の持つエネルギーを高めていく。
旨い醤油には人のエネルギーを高めていく力がある。
(この文章は2006年(晴暦26年)3月に晴屋通信に掲載したものです。)

作る楽しさ耕す人たち その19 寺田本家第23代当主 寺田啓佐さん 発酵の先にあるもの

作る楽しさ耕す人たち   その19
寺田本家第23代当主 寺田啓佐さん
発酵の先にあるもの

去る4月18日、寺田本家第23代当主の寺田啓佐さんが逝去された。
謹んでご冥福を祈ると共に、私たちに残されたものを顧みてみたい。
晴屋では香取や五人娘など、寺田本家以外の蔵の日本酒を扱っていない。
すっかり依存し、信頼しきっている。
元来、山廃とよばれる時間と手間が懸かり、自然の成り行きにも依存する酒が私
は好きだった。
酸味も、旨みも、豊かで、芳醇。
味わい深い山廃の酒を飲んでしまうと、大吟醸などでは満足ができなくなる。
石川の「菊姫」や「天狗の舞」、秋田の「比良泉」なども愛用の酒だった。
しかし晴屋が酒の免許をとり、店頭に並べる日本酒を決めるときは、迷わずに寺
田本家のものだけを選んだ。
この蔵の酒の味は毎年違った。
未完成という見方もできるかもしれない。
けれど味わいの深さだけではない、また違う魅力がこの酒たちにはあった。
酔い口のよさだ。
飲んで元気になる感じ。
大吟醸の酔いは頭に響き残る物が多い。
昔から評価の高い日本酒はお腹にずっしりとたまる。
しかし寺田本家の酒はお腹や腰に響いても、重たくなることはない。
何かこちらのエネルギーを高めてくれるような力を感じる。
お客さんたちの健康を導くのが晴屋の仕事なのだから、これほど目的にか
なった酒は他には考えられない。
世の片隅で、世の流れに足をとられないよう辛うじて踏ん張っている私たちだ
が、同調してくれるお客さんたちに受け入れられ、定番として多くのファンを獲
得している。
売る側にもこうした経緯はあるけれど、作る立場の寺田啓佐さんにはそれとは比
べ物にならないほどの創意と工夫と長い年月の熟成と、それに対応する苦労
もあったろう。
寺田家は代々女系で、蔵の看板となっている酒「五人娘」の名もそれによって
つけられた。
三十年ほど前、婿養子の啓佐さんが第23代の当主になった時には、ごく普
通の添加物を多用した酒造りをしていた。
しかしその頃は粗悪な日本酒が世にあふれ、消費者の日本酒離れも始ってい
た。
次第に経営も厳しくなり、自身も健康を害された。

「どうしてだろう。なぜだろうとふたたび思うようになった。何か大切なものを見
落とし、間違った方向に進んできたのではないだろうか。そう考えたとき、発酵
醸造を生業とする私自身の世界を見つめた。発酵醸造という微生物の世界。
その世界は、互いに支え合って生きる、相互扶助の力が大きく作用している。
微生物の世界は、「愛と調和」で成り立っていた。それを見て、「人間も微生物
のように、発酵しながら生きれば、争わなくても生かされる」ことを確信した。
自然界には法則がある。その法則をきわめようとした近代科学は、逆に自然
界そのものから離れていったのではないのか。自然から遠ざかれば遠ざかる
ほど、不幸や病に近づくことになったのではないか。
その学びを進めるうちに、「発酵」と「腐敗」という二つのファクターが、すべて
の物事を考えるものさしとなり、自分自身が生きるうえでの指針にもなってい
った。やっと見つかった。うれしかった。
論語の「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」の心境だ。涙が止まらなかっ
た。
混迷する世を救い、人として進むべき道を明らかにしてくれる鍵が、微生物の
暮らし方のなかには、いっぱい隠されていた。人類が本当の平和、健康、幸
福を達成する方法も、そこにあるのではないかと思う。    著書「発酵道」より」

最初は「五人娘」だけだった無農薬の米の使用も、今は全ての製品に拡大さ
れている。
何トンもの備長炭を使い、仕込みの水の力を高め、発酵の室の壁にも埋め込
み、場の質を向上させている。
仕込みの井戸水はさらに、浄水器を通し、クラスター(分子集団)をばらばらにし
た活性化した水になっていく。
電磁波や低レベルの放射線下で、植物などの生育が促進されるという話がある
けれど、それは不健全な生育状況下で生き急いでいるということだろう。
備長炭は電磁波をさえぎり、マイナスイオンを発生させる。
負の要素を逆転させプラスに変える力を備長炭は、持っている。
柔らかく静かな気の流れる室の中、麹があわてずに、じっくりゆっくりと育って
いく。
麹菌も自社の無農薬の田の穂から採取した、この米に一番あったものを使って
いる。
田では無農薬であるために草が生えるけれど、人の手による除草をしている。
寺田本家では、重い米を運搬する機械も全て撤去してしまった。
真冬に米を仕込むときの水洗いも、手袋もせずに素手でしている。
「てのひらづくり」と呼んでいる、こうした効率よりも身体で納得し、充ちるまで気
を高めるやり方で、酒に勢いが注ぎこまれるだろう。
常識では考えられない玄米が原料の「むすひ」も体調をよくする酒として広く
受けいれられるようになった。
その年によって味が違うと書いたけれど、通年仕込み、その季節によって味が違う
「醍醐のしずく」が最も蔵の個性をあらわす酒かもしれない。
いにしえの酒作りを再現したこの酒はアミノ酸が豊富で、そのためか疲れがと
れる。
酔うためというより、滋味で心と身体を充たすための飲み物だ。
その他多くのことたちが、寺田啓佐さんの発案で実行され、確実に酒の品質を
上げていった。
それらは全て、発酵のもつ素晴らしい力の気づきによってもたらされている。
発酵と腐敗を分けるものは何か。
EMでは有用な菌類を注ぎ込むことで、農地や環境の力を高めようとしている。
けれど寺田さんはそれに近くとも、少し違う立場で発酵を追及されたよう感じる。
私たちが蔵にお邪魔したとき、発酵途中のもろみに指を入れて味見をさせて
いただいた。
常識なら雑菌が入って品質は悪くなるはずだ。
しかし寺田さんは、いろいろな菌が入ることでの可能性を感じていた。
固定は正しさを求め、排他となり、やがて行き詰まる。
流動し、発酵し、変化し続ければ、常に新しいものを生み出し続けられる。
寺田啓佐さんの生き方からはそんなメッセージを読むことができる。
それは一般的にいう、発展とは違うかもしれない。
寺田本家では人手による酒造りをしているため、仕込み量を増やさない。
冬に仕込んだ酒を9月中旬まで熟成させて売り始め、年を越す頃には売り切
れとなってしまう。
晴屋のように他の日本酒扱わない店にとっては困ることなのだけれど、便利さ
や利益のためにその姿勢を崩そうとはしない。
また品質や味も無理に個性を際立たせようともしていない。
個として確立し、一定の評価を得て、確定した位置を築くことに固執しない。
微生物と同じに、周りのものたちといっしょに変わっていこうとしている。
これは考えると、とてもすごいことだ。
変化し続けることを覚悟するというのにはとても膨大なエネルギーが必要だ。
寺田さんは生涯に渡ってそれをやりきった。
発酵という多くのものの恵みと出会いで生まれる特別な状態の中に、人の生き
るひな型を見つけた。

「自然に逆らいながら人間だけが困らないように、人間の都合で勝手にやらか
した事に今しっぺ返しが起きている。
放射能問題もそのひとつだ。でも『発酵』で解決できそうだ。
チェルノブイリでも実証済みだが微生物の働きは放射性物質をも自然物質に
変えてしまう。
福島県と宮城県県境の山あいの峠で発酵液を散布したが、周りの汚染数値
は確実に軽減している。
今こそ微生物の声に耳を傾けたらと思う・・・。微生物が教えてくれた。
『自然に沿ったらうまくいくよ』って。
                   平成24年の「年賀」はがきより」

長崎や広島での原爆の投下後、味噌や酒などの発酵食品が症状の緩和に
有効だったという話が伝わっている。
整体法の野口晴哉も毎年広島に通い、身体を確認して盲腸が原爆症に関係
していると記している。
盲腸は、腸内の微生物の棲家だ。
一見不要なものの中に実は宝が隠されている。
寺田啓佐さんはそれを自分なりに直感で感じとり、私たちに伝え残した。
いずれ放射能に対する、いやそんな狭いものでなく、命や宇宙に対する微生
物の力が科学的に解明される時がくるだろう。
しかし科学的解明よりも先に、私たちは命としてそれを感じ、生かすことができ
る。
その命としての明るい道を歩む楽しさ、素晴らしさを伝えたことが寺田啓佐さん
のなによりの功績であり、それは今後もますます影響力を持つだろう。
そして、今若い力に溢れている寺田本家が失敗を恐れずに変化を続け、発展
や拡大に捉われる一過性の現代病に犯されず、命の自然に沿った歩みを続
けていくことが何よりも求められていると感じる。
急なご逝去に驚きながらも、私の心のうちにぎゅっと凝縮したものを感じる。
それは寺田啓佐さんの意思が私の中にも宿っているという感覚であり、多くの
ひとにも等しく伝わっているだろうという確信であり、寺田本家がそれを続けて
いってくれるだろう信頼でもある。
本当に多くのものを残された人生だったと改めて思う。

作る楽しさ耕す人たち その11 自然に学ぶ酒造り 五人娘の寺田さんと藤波さん

作る楽しさ耕す人たち
その11 自然に学ぶ酒造り
   五人娘の寺田さんと藤波さん

「いい環境さえ整えておいてやれば、自然にいい発酵をするんです
ね。そしていろいろな雑菌がいることが美味しさにつながります。」
今、PL法(製造者責任法)や、O157などの問題で、製造の現場
の衛生に対する意識は高い。
けれど五人娘を作る寺田本家ではむしろ逆で、見学者を蔵の中
に積極的に入れてくれるし、雑菌があるのを喜んでいるようにも見え
る。
薄暗い蔵は、煤けた太い木の梁が、そこここに見え、静かな中に
力強い存在感を示している。
隅々まで気の行き届いた整然とした雰囲気は、わざとらしさが無
く、いい意味での合理的なセンスの良さを感じさせる。
昔からの道具や建物が大事に使われているのが伝わる。
蔵にはいい酵母や菌が棲みつている。
手間と時間がかかる昔ながらの山廃仕込では、発酵を進めるため
の乳酸菌を添加せず、空気中の菌が自然に入り込むのを待つ。
様々な菌が一緒に入ることで、複雑で奥深い味に仕上がる。
これは、腐敗によって酒造りが失敗する可能性も秘めている。
しかし、寺田家では一度も酒を腐らせたことが無いという。
冒頭の代表の寺田啓佐さんの言葉は長年の経験を踏まえた相当
に自信に満ちた表現に違いない。
「酒造りは命のめぐり逢いです。
吟醸酒というのは、米の命である一番栄養のある外側を捨てていま
す。大切に作られた物、旨みのある所を捨ててすっきりした味を求め
ているんです。」
今年の年賀状には次の文章が載せられていた。

さまざまな微生物の働きによってお酒が
出来る。微生物の働きなくして醗酵は始
まらない。自然の恵みを微生物は仲介し
て新しいものに生まれ変わらせてくれる。
お腹の中でも毎日、100兆の微生物が
醗酵しつづけ、そして血や細胞も造って
くれる。そして、うんこの中身は食べ物の
カスと微生物とその死骸だという。生命を
かけて私達のゴミを引き受け、ゴミ出し
までやってくれる。私達の生命を支え、
いつも見えないところで下坐行に徹して
いる微生物達。
すごいなあ。有難いなあ。お陰で生かさ
せてもらってるんだなあ。
「微生物に感謝しよう」そう心に決め、自
分に言い聞かせた。よくよく考えてみた
らいつもいつも微生物からもらいっぱなし。
「ありがとうございます」「ありがとうござい
ます」
「あっ!いけねえ、又忘れちゃった」
恩知らずのひとりごと・・・・・。

晴屋では微生物という言い方よりは、バクテリアという表現を使って
いる。
健全な土のスプーン一杯の中には一億以上のバクテリアが共存し、
充足し、完結した小さな宇宙を作っている。
植物の根にあたるのが、動物である私たちの腸だ。
バクテリア=微生物のおかげで、植物も動物も生きることができる。
腐敗と発酵を分けるものは何か?
「変わらないでいると腐ってしまう」という信念のまま常識に囚われな
い酒を目指す寺田さん。
地元の無農薬米100%使用、備長炭や電子イオンで活性化した仕込
み水、磨きをしない発芽玄米での酒造りなど、新しい取り組みは際限
無い。
今、杜氏さんを変えてより上の品質を目指している。
写真の左側が社長の寺田啓佐さん、右が新しい杜氏の藤波さん。
使用人の頭だった藤波良貫さんが昨年から杜氏になった。
永平寺で修行したお坊さんで、関西で住職をしていたこともある。
厚ぼったい体と感性をしていて、じっくりと仕事に取り組みそうだ。
禅宗では修行の合間にもよく酒を飲む。
良貫(りょうかんと読む)さんに、どうして酒造りをしているのですか、と
聞いたら「真っ当な仕事がしたかった」。
寺門の住職より、酒造りの方が真っ当な仕事だという感性は面白い。
そこに至るには様々なことがあったに違いない。
五人娘の寺田本家での酒造りは、緊張と充実に充ちた時間だろう。
最近、五人娘の味が変わった。
以前の味は柔らかく大人しい味。
飲んでいるとほっと力が抜けて、心が静かになる。
お米の香りがたっぷりあり、お腹に沁み込んで気持ちが豊かになる。
今度は同じ物は残っているのに、主張は強い。
風味豊かな良質の発酵した香りが、舌から喉、お腹から頭まで全
身をかけめぐる。
しかも、雑味が無く、複雑な香りで、どこにも嫌味が無い。
純米酒の豊かさと吟醸酒の切れ味を両立したような味だ。
良貫さんは杜氏になってまず機械を片付けてしまった。
蒸した米を冷ます機械や、運ぶ機械を止め、昔からの手間と時間が
かかる人手に戻した。
そして出荷の時の酒の火入れを、ビンに詰める前でなく、瓶詰めして
からにした。
これが味には大きな影響があったようだ。
空気に触れての酸化が少なくなったので、以前の米の香りの後ろに
あった少しのぬか臭さが全く無くなった。
私は酒質は格段にアップしたと思ったが、お客さんの中には風味が
濃すぎてうるさいという感想を持った人もいる。
人の感性はまちまちだ。
それでもこの方向性は変わることはないだろう。
一体、どこまでいくのか、良貫さんが自分で責任を持って仕込んだ
酒がもうしばらくすると仕上がってくる。
今から楽しみだ。
良きことを貫ぬくというのは、ステキな名前だ。
主の寺田さんにも、酒造りに関わるきっかけを聞いてみた。
「動機は不純なんです。五人娘の名の通り、代々の女系家族で婿に
来て、二十三代目の当主になりましたが、それまではサラリーマンで
した。32年目になって、どうあらねばより、自分がどう関わっていくか
が判ってきました。」
最後に、もし私がされたら困るだろうなという質問をしてみた。
今やっていることは自分では正しいという自信はあるだろうけれど、
次の世代に伝える自信もあるのだろうか?
「お神酒(おみき)は、「嬉しき」「楽しき」「ありがたき」の三つの気を現
した言葉です。人もお酒も命の響き合いです。どんな時代でもそれ
は変わりません。娘が三人いますけれど、二人は婿を取って寺田を
継ぎ、一人は酒造りを手伝っています。」
寺田本家には静かで、澄んで、力強い気が満ちている。
無添加や、無農薬が人を惹きつけるための手段でなく、良いもの
を求めた結果としてある。
激しい物、強い物、分かりやすい物が受け入れられる世の中で、
心を静かにしないと感じられない物を元に続けているのは、とても
稀なことだ。
無菌の清浄を求め頼っては、良い酵母は育たない。
発酵と腐敗を分けるのは、良質のミネラルのバランスであり、そこに
ある気の質なのだ。
いい材料をいい環境に置きさえすれば、自然にいい物になるという
信念は、この気の質に裏打ちされている。
寺田本家では、「五人娘」の他に「香取」というお酒も造っていて、
香取神社のお神酒にもなっている。
五人娘よりは少しすっきりした風味で、ある程度量を飲む酒好きに
は、かえって飲みやすいかもしれない。
力まない分、かえってこの蔵の個性を味に実現しているようにも感じる。
今回の見学での収穫で、晴屋でも少しづつ取り組んでみたいと思った。
お神酒=お三気と共に、喜びと肯定を元にした生き方から、充足は
生まれる。
(この文章は2006年(晴暦26年)2月に晴屋通信に掲載したものです。
去る4月18日に、寺田啓佐さんはご逝去されました。
次週、追悼の文章を載せる予定です。)

作る楽しさ耕す人たち その10 竹内健さん バリ、見えない光を求めて

作る楽しさ耕す人たち
その10 竹内健さん
  バリ、見えない光を求めて

竹内さんの本来の仕事は、博物館の立ち上げや改修・改善、展示の
プロデュースだ。
インドネシアのバンドンとバリ島で10年間暮らすうち、言葉も身に付
き、生活も根付いてしまう。
2年ほど前に区切をつけて帰国したけれど、人に頼まれてバリの物を
提供するうち、仕事として卸すようになった。
彼が持ってくるものたちには、科学を志す者が求める完全さと、プロデ
ューサーとして現実を見据える美的センスが息づいている。
それは、バリ・クサンバの塩だったり、類を見ない使い心地の石けん
だったりする。
竹内さんは、バリやバンドンでいったい何を見、何を感じていたのか?
無口な私が、更に無口な竹内さんを相手に、酒に頼ってのインタビュ
ー。
翌日は数年ぶりに、軽い二日酔いになる。
週末の夜の、薄暗い晴屋で、5時間にもなるインタビューは、バリ、
バンドン、塩、波動、長石、火山、ミネラル・バランス、活性水、屋久
島、御蔵島、バクテリア、花崗岩,地磁気の反転、地球膨張説、ル
イボス茶、マンゴ、食べ物、音楽、アート、言葉などなどとつながり、
お伝えできるのは、ごく一部だ。
途中、岩石や鉱物、火山の話しになると、急に目が輝いて楽しそうな
顔になり、信州大学で地質学を専攻していたルーツを垣間見せる。
普段の髭をたくわえた国籍不明の静かな男という印象とは違う、少年
のような素顔を見る事ができた。
では、10年ぶりに帰った日本の印象の良いところから。
「役所の手続きの早さですかね。
むこうではそうは、なかなかいかない。それと公共交通があって、時
刻表通りっていうこと。
後は・・・・・・。でも、美味しいお酒と魚ですね。この取り合わせはむこ
うでは味わえない。
寒さもですね。むこうでいっしょだった日本人と「寒いのいいよね~」っ
て言うんですよ。」
寒さは集中力を高める。
暑いバリでは、集中する時はあるのかとたずねてみたら、音楽を聞いて
いる時だという。
闇の中、ガムランの音が鳴り響き、次第に感性が高まっていく。
トランス状態になった人が走り出し、それを待っていて、追いかける人
がいる。
そして、今日は多かったねとか、少なかったねとか話しながら楽しんで
いる。(バロンの奉納行事)
その全てが、集中した時間だという。
では、悪い印象の方は?
「悪さね・・・・・・・。
相手の立場を考えていない。身内の部分とそうでない部分の敷居が
高い。袖振り合うも多少の縁っていうのが無くなっちゃった。
息子(バリで育ちいっしょに帰国した)がそうです。電車に乗ってて
も、隣の人とコミュニケーションするのが普通だと思っているので、隣
の人は困っちゃう。
もう一つ、文化的なことなんですけれど、違和感があったのは、ラジオ
を聞いていても何しても、洋楽とかアメリカの音楽がほとんどだという
のがどうも馴染めない。むこうでは何でもかかるんですよね。インド映
画ばっかりなんていうのがあって、ジャワ島でイスラム教の人がインド
映画好きなんですよ。濃い顔で追いかけられていた人が突然歌った
り、踊ったりするエンタテイメントが。
日本のアニメも早くから入ってくるし、韓国も早かったですね。
日本は、不満ていうか、つまんない。
こっちでは展覧会でも、物凄くどっと行くので、すごいなって。結局、
日常的にそういったものに接する機会が無いので、大きいのが来る
とみんなそっちに行っちゃうのが、不思議ですね。
バリでは、常にアーティスティックな雰囲気があって、そんなこと意識し
なくても、とにかくそういうのが多いですから。」
バリやバンドンの現状はどうでしょうか?
「それなりに豊かになっていくところがあって、あの世界でコンビニがで
きはじめる。もともと日本で言う所のよろず屋的な店がいっぱいあった
わけで、今でもありますけれど。現地のコンビニは日本みたいには品
物は揃っていないんですけれど、雰囲気が似てますよね。蛍光灯が
明るくって。
でも、市場(パサール)が廃れることは絶対ないでしょうね。
バリの人は、祭礼のために仕事をしているというのがあって、祭りってい
うのはしょっちゅう生活の中に組み込まれているんで、その合間にいっ
しょう懸命稼せいでいる。プライドもけっこう高いところがあります。
ジャワ島の人はすごく婉曲的に、遠くまでいってグルッと帰ってくるような
言い方でやってくれるんですけれど、バリの人はストレートなんで、早いと
いえば早いですけれど、意外に主張するところは主張するような気がし
ますね。
バリヒンズー教というのはここだけですよね。他はモスレム(イスラム)かク
リスチャン。インドネシアっていう国は世界で一番モスレムの人口をかかえ
ていますから。それで、200近い民族と200近い言語があるから、それ
だけ面白い。国を治めていくのは至難の業です。居れば、居るほど解ら
なくなる。やだっていうのと、面白いっていうのがあってね。」
仕事として付き合うには、どうなんですか?
「バリヒンズーには暦が二つあって、それぞれに定期的に祭礼があるか
ら、しょっちゅう動かなくなります。
人も車も動かないので、それは諦めるしかない。
人間関係も大変です。一度信頼関係が出来ると、よほどのことが無い
限り裏切られる事が無い。そういう関係は無いですよね、裏切る裏切ら
ないっていうのは。話をしてて、そこまで信じるかっていうのがありますよ
ね。何度かあった人が、親に会いに行こうと思うけれど行けないからお金
渡しといてって札束を渡すわけですよね。いいのかって聞くと、ああわか
ってるなんて言われて、何をわかっているんだろうっていう感じですよね。
一度入ってしまうと全部信頼しちゃうんで逆に重いですよね。ビジネスの
世界だけで信用してくれればいいんですけれど、全部っていうのが、
だいたいほとんどですね。
日本に帰ってくると、生活と仕事がバラバラみたいな、うまくリンクされ
ていないっていうか。向こうに行くとそういうのがタラーッと、連綿と流れ
ているので、仕事してたり、お祈りしてたり、生活してたりっていうのが
流れていくんです。」
品物を扱う基準は何ですか?
「それは、一つ言いたかったのは、バリ島の何々って、そう言いたくな
かったんですよ。一応はバリはメジャーで、売りやすい名前ですよね。
でも美味しいね、どこの?、ああバリなの、っていうのが一番いいんです。
塩でも揚浜式できちんとやってくれてるところは少なくて、何十件とある
中で、うちが取引しているおじさんが真面目にやってくれている。
その中で、乾季に作った質のいい物を扱っています。
向こうの人ってビジネスライクで、高く買ってくれるところに売っちゃっ
たりするんですけれど、あんたと取引きしたいというところが出てくるん
ですね。うちの分をとっておいてくれる。そうだからちゃんと売らないとい
けない。」
間口は知的なのだけれど、あくまで情の人なのだ。
深情けだとさえ言える。
だから、インドネシアで信頼もされてきた。
バリに事務所も持ち、奥さんが常駐している。
バンドンに出版社を持ち、現地スタッフと共に消えいく文化の記録や、
精密で美しい切手のデザインなどもしていた。
日本でも、インドネシアでも、決して良いほうに向かっているとは言えな
い状況で何か展望はあるのだろうか?
「こうあって欲しいというのは、観光でも、浜辺でただボーっとしているん
でも、今自分たちの生活を見直すっていう旅行をしてもらうっていう風で
あって欲しいですね。お金で買えないような、こういう暮らしもある、こうい
う考え方もある、そういうのが続いているのを見てきてもらいたいし、また
伝えていきたいですね。」
美しいものや、知的に興味深いものを提供することに情熱を傾ける。
根っからのプロデューサなのだ。
以前話したときの「こんな時代だからこそ、本当に良いもの、美しいも
のが必要とされていると思う」という言葉は印象的だ。
携わるのは、品物や博物館など、具体的で現実的なものであっても、
求めているのは理想の美や光なのだ。
それを感じてくれる人たちは、確かにいる。
しかしそれが圧倒的少数であるのが、竹内さんにとっても、晴屋にとっ
ても問題なのだ。
それでも、赤裸々な闇を見つめる眼は捨て難く、誰に教えられたわ
けでもない、内なるほのかな光明を求める精神は消えることがない。
(この文章は2005年(晴暦25年)6月に晴屋通信に掲載したものです。
バリの塩は相変わらずの好評で他のものが受け付けなくなってしまいます。
ただ、天候の異変で収量が上がらず、不景気のためバリからの直接の船便が
たたない状況で入荷が安定しません。出しては見ても一月以上どこにあるのか
わからなくなる時もあるようです。
塩についての詳細は、詳しい商品説明の中、調味料のページをご覧下さい。)

作る楽しさ耕す人たち その9 ろばやの山内智晴さん 旅とフェアトレードと経済の間で

作る楽しさ耕す人たち
その9 ろばやの山内智晴さん
  旅とフェアトレードと経済の間で

ろばやの山内さんは静かに、少し高く、早い口調で話す。
丁寧にきちんと、頭の中にあることを伝えてくれる。
言葉を大切にしているという感じが伝わってくる。
ろばやは武蔵小金井の店と、国分寺の焙煎工房兼店舗の他に、有機
栽培を中心とした珈琲や紅茶、食品の卸しをしていて、晴屋にもその
商品は並んでいる。
ロアンさんとの付合いがあったので、最初はあまり積極的には取引をし
ていなかったのだけれど、いい物の品数が増えるとかえって選択の
余地が広がっていくためか、ロアンの売り上げもほとんど落ちずに、よ
く支持され、売れている。
品物と一緒に時々届けられてくる通信には、商品の情報の他に「ろば
の雄叫び」と称して、なかなか普段言えないようなことや、少し過激な事
が書かれていたりする。
けれど、ホットなのは言葉と内面で物腰は穏やかだ。
ヤクルトの古田捕手を小柄に細くしたような感じと言えば少しは、イメー
ジが湧くだろうか?
仕事として扱っているのは有機栽培や無農薬の珈琲や紅茶、それに少
し珍しくて、そう高くは無い、おいしい食べ物たちだ。
それはドイツの黒いライ麦パンだったり、タイの無添加グリーンカレー・
ペーストだったりする。
そこには、生きる基準になっている「旅」の経験が色濃く反映している
ようだ。
ろばやが東久留米の滝山団地にあった店をたたみ武蔵小金井の店を
開くまでのしばらくの間も旅を続け、ヨーロッパやアジアで自然食品店や
産地を見てまわった。
でも、どうして、珈琲や紅茶なのだろう?
「彼女(共同生活している徳山さん、間に一男あり)が趣味でやってたん
です。焙煎屋に出入りして、まかされて珈琲を焼いていた。団地の風
呂をどけて、焙煎機を入れて焼いて近所から苦情が来たりもしていた。
滝山で自然食品店をやっていた時は半分は珈琲をやってたんですよ。
それがだんだん珈琲の方が大きくなってきたというか。」
以前に比べて珈琲や紅茶の味にメリハリが出て美味しくなってきてい
るような気がするんだけれど?
「二人、味の好みが全然違う。それでいつも確かめているわけですよ。
味が変わると怖いから。酸味系は難しいから彼女、深煎りは失敗が
少ないから僕が焼いている。
本当は珈琲好きの人はオーガニックじやなくていいわけですよ。それし
かない珈琲焙煎屋なんていうのはなりたたないんですよ。珈琲は嗜好品
なんですよ。自然食の人の無農薬ならなんでもいいという発想にも不
満はあるし、焼き方で味もけっこう変るので、オーガニックは美味しい
んだと広めたいという気持ちが起こるんですよ。色々な豆を焼いてみた
いという気持ちも起きるし。で、オーガニックの方が美味しくなってくるん
ですね。もたれないし。味で勝負したいんですね。」
フェアトレードはどう取り組んでいるんですか?
「有機ペルー豆は60t日本に来てるんです。それで全部なんです。普通
より30~40%高いんですよ。どうして高いんだか分からず15,6年間来て
いるんですけど、一つには代わりがきかない。ここしかないから不透明
なんです。どこもそうなんです。フェアトレードというのは独占的で、生産
者にどれだけ行っているのか誰も分からないんです。商社がやってい
る事と似てるんですが、他のところと違うのは競争が無いんです。だから
良心が全てです。混ぜ物は無いです。それは信頼出来るかなと思うん
ですが、利益配分を疑っているんです。」
何がフェアなんだろう?
「今まで輸出できなかった人たちが共同組合を作って、協力しあって、
新しい販売ルートができる。利益も公平に分配する。これはフェアです。
でも、インドは難しい。ダージリン(地方)に行くと90位しか農園が無いん
ですよね。オーナーというのは地主制ですよ。個人が経営していて、後
はみんな働いて。インドは貧しいから外貨を稼ぐという意味ではフェア
トレードというイメージを持つことも出来ますよね。でも働いている人た
ちには関係無いわけですよ。その事はフェアトレード・カンパニー(グ
ローバル・ビレッジ)に聞いたんだけれど、全然回答が無いんです。ペ
ルーなんかは農協のような形で二千人位でやっていて、フェアトレード
として売っている人たちもいるんです。どうしてそれをウチがフェアトレ
ードと言わないかというと、商社が引っ張って(介在して)いるんです。
今の現状はあまり深く考えずにイメージでやるというのが、商売上はい
い。物によってはラベルにフェアトレードと書いてあります。
日本のフェアトレード団体は大きくなっているけれど、本当に現地が
よくなっているかどうかは分からない。本当には。フェアトレードはあく
までビジネスなんですね。いい部分だけを取っていく。けど、僕らが旅
して作っている所を見学していると違う物が見えてくる。貧しいエリアを
廻るのが好きなんですよね。行けば必ずその人の目線がありますよね。
生きる上での刺激になるんですよ。
ラオスの山の中にね、草木染で機織を教えている人の所にいったん
ですけど、いい物だから日本に出さないんですかとか聞きますよね。そ
うすると面白いんです。「出さない」と言うんです。ラオスは貧しいけれど
まずラオス国内でちゃんと売りたいんです。フェアトレード・カンパニー
って日本とかヨーロッパの雑誌とかで西洋の今を持ち込んで、文化に
合わせた物を発注するわけです。
あくまでも働いている人たちは自分たちの日常とは違うわけです。輸出
のためにヨーロッパとか、アメリカとか、日本の流行を追わなくっちゃな
らない。ラオスの伝統を守るために、ラオスの人たちに買ってもらえる物
を作りたい。余裕があったら海外にも出すということなんです。フェアト
レードやっている人の感覚とはあい入れない。
珈琲、紅茶は栄養になりませんよね。
外貨を得るための手段で、先進国に経済を依存した構造なんです。ぜひ
とも買う物ではないんです。自分たちの食べ物を作るのを止めて、お金
になにる珈琲、紅茶を作るのがいいかどうか、考える価値があると思うん
です。
それとアフガンから谷山さんという人(JVCスタッフ)が帰ってきて、刺繍を
5枚持ってきたんです。それは物の売り買いが出来ないものなんだそう
です。文化らしいんです。もらうしか、金で買うという発想が無いらしいん
です。貧しいエリアだけれど、西洋の価値では無いものがまだあるん
です。」
ろばやの今後の課題は?
「経済的自立ですね。まだまだ食っていける状況ではない。」
経済やお金の数字の上での「発展」を目指した世の流れの中で、本来
の人間のあり方を守るのはますます難しくなっている。
ロバのように頑固に地に足を付けて生きることと、経済的に潰れない状
況の両立には余程の覚悟が必要だと思う。
雄叫びが、負け犬の遠吠えでなく、本来の人の生きる道を指し示すも
のになるか、これからも見届けたい。
ろばやの製品の中で特にお奨めなのは、珈琲ではガヨマウンテン。
濁り無くすっきりしてしかも深い。
どこか紅茶の風味も感じさせる。
紅茶では、アールグレーが一押し。
天然ベルガモット(柑橘系)の爽やかで切れのある香りがうれしい。
セカンドフラッシュのダージリンは入れ方が少し難しい気がするけれ
ど、うまくいった時は抜群の味だ。
手探りしながら世界から集めた、深い感覚に届く味が楽しめる。
(この文章は2005年(晴暦25年)5月に晴屋通信に掲載したものです。)

作る楽しさ耕す人たち その8 ネオファームの下村雅昭さん 海外+農業+貿易+対話=ナッツ

作る楽しさ耕す人たち
その8 ネオファームの下村雅昭さん
  海外+農業+貿易+対話=ナッツ
風貌は一言で言えば、愛嬌のあるイノシシだろうか?
今や自然食品業界でナッツやドライフルーツの最大手のネオ・ファーム
の社長・下村さんは、少し関西弁を交えながらよくしゃべり、笑う。
「メーカーを信じちゃだめですよって、言ってるんですよ。自分で確か
めていかないと、騙されちゃう。」
今でも対面販売が好きで、卸先の小売店の店頭に立って、ナッツの
試食販売をしている。
心ある消費者に出会ったときに、思わず出てしまう一言だ。
ネオ・ファームでは多くの物を、自分の眼で確かめて、海外の有機農法
の生産者に注文する。
下村さんは、今、原点に帰ってなるべく直接、小売店や消費者とコミュ
ニケーションをとるようにしている。
売り上げを大きくするより、むしろ、限りある生産物の中での小さな規模
を考えてもいる。
だから、多くの大きな流通が売り上げを優先し、「有機」という名称があ
れば何でもいいという風潮には懐疑的だ。
永く付き合い、関係や商品を育てていくには、安全というだけでは足り
ない。
「国境は関係ない。話してると違う。
畑で話していて、心のこもった人だなあと感じた人だと、問題も起きない
し、長く付き合える。それをどうやって品物にのっけていくかが、次のス
テップです。」
しかし、有機農業を取り巻く環境は、日本と同じでアメリカでも厳しい。
「有機農業も昔は良かったって生産者とよく言うんですよ。広めていこう
という心意気でやっていたのが、今は言葉や数字の管理になっている
んですよ。決まりごとが多い。税金が高くて、人を頼むのも大変で、こ
の賃金なら何フィートまでの木に登っての剪定や収穫の仕事、それ以
ならないなんていうのもある。
だから後継者が育っていないんです。69歳の生産者が、今年は出す
けど、来年はわからん、なんて言ってきている。」
有機というだけなら、世界中から商社を通じて、簡単に買うことが出来
る。
しかし、それでは意味が無い。
生産者を知り、消費者に確実に届け、その反応を返していかなけれ
ば、納得できない。
いつでも、真直ぐ、一途なのだ。
この世界に入るきっかけもそうだった。
造り酒屋に生まれ、兄が大根踊りで有名な東京農大の醸造学科に入学。
大学のパンフレットを見て、拓殖学科というの見つけ、「ビビビっ」と来
て、親の反対を押して全く経験の無い農業の道に入った。
しかし、トマトと胡瓜の葉の区別もつかない状態での、週5時間の実
習では役に立たず、仲間と農家を一軒畑ごと借りて、「わらぶきの家」
で共同生活を始める。
一年休学して、タイやマレーシアで農業の実習もした。
しかし、その経験が方向を転換させる。
日本からの援助のばら撒きで、農薬や化成肥料を使って、数字の上で
の成果を求める、お役所仕事の援助に疑問を感じた。
電気も水道も援助頼みという状況の中の現地の農民から、
「お前はいいよな。帰る場所があって。俺たちはずっとここで生きていか
なきゃならない」
と、問われもした。
卒業して、どうしようかという時、自分の中のキーワード、海外-農業-
貿易-コミュニケーションがつながって、貿易会社に就職した。
農大出身者は、サラリーマンを普通3年持てばいい方といわれる中、5年続
いたある日、ショックなことがあった。
テレビで「山岸会」の報道特集をしているのを見ているのに、それに無
感心、無感動な今の自分に気づいてしまった。
学生時代に複雑な思いをして見ていたものに対して、何の反応も起こ
せない。
これではいけないと一念発起し、わらぶきの家で、農業で身を立てよ
うとした。
生協や宅配などで頑張ったが、生活できるまではいかなかった。
得意の語学や貿易会社での経験を生かした、副業のナッツ類の輸入が
好評で、平成九年畑を返し、ナッツ、ドライフルーツに専業になった。
紆余曲折や、挫折ももちろんあるのに、何も無駄になっているものがな
い。
全て、今の仕事に生きている。
だからこそ、ナッツなのだ。
「基本は農業。日本にあるものは扱わない。生ものはやらない。農業は
潰さない。」
これが絶対の原則だ。
乾物が扱いやすいという以前に、農業への深い尊敬という基準がある。
そして、いいもの、美味しいものを作るのは有機農業だという認識も。
「百姓になりたいけどなれない。
卸だけではあきたらない。中途半端なので、器用貧乏が私の憧れ。」
と本人は言うけれど、美味しいものだけでなく、こちらが????と思う
ものも時々企画してくる下村さんだが、この自分で作り続ける感覚は、
農業の現場に近い。
土日には、ご飯を作り、子供の相手もする。
この健全で、前向きな発想と行動力が、他には無い海外とのつながりと
流通の形態を作ってきた。
決して、中途半端ではない。
種を蒔き、育て、待ち、収穫するのが農業。
人間関係が畑で、アプローチが種蒔き、対話して育て、待ち、収穫す
るのが生の農産物でなく、乾いた果物や木の実であるということだ。
そして、幸せなことに、食べる人の顔を見て、反応を知ることもできる。
メーカーや農家には、なかなか出来ない体験だ。
ナッツを扱う楽しみは何ですか?
「素材に触る、うれしさですね。畑から直接、ほとんど誰の手にも触れな
いで来ているわけで、生命そのものを扱っている気がします。」
木の実には、一つ一つが芽吹いて、生命になる完全な力を宿している。
実のある仕事なのだ。
いじって、ブレンドして、試して素材に向き合い、オリジナルの原料を超え
た味を出している物もある。
例えば、「サラダにおいしいナッツ」は、南瓜・ひまわり・アーモンド・くるみ
の実のブレンドで、それぞれが好評な美味しいものなのだけれど、豊か
さや切れ味、歯ざわりと満足感が増し、止まらない味だ。
永く食べて飽きない、地味で滋養のある豊かさを求めている人は、是非
一度お試し下さい。
(この文章は2005年(晴暦25年)4月に晴屋通信に掲載したものです。
下村さんはこれ以降に少し方向転換をし、拡大と発展を前提とした仕事から、
小規模で内実のある形態にシフトしています。
店頭に自ら立って、消費者に直接訴え、手渡すことにも積極的です。
国産のドライフルーツも企画し始めて、確実に思いを形にしています。)

作る楽しさ耕す人たち その7 枉駕の本多みまさん 食べることは生きること

作る楽しさ耕す人たち
その7 枉駕の本多みまさん
  食べることは生きること

少女時代のみまさんの映像を見たことがある。
「レッツゴー!ヤング」というNHKの番組で、もう20年も前のものを
衛星放送で再放映した物だった。
番組に準レギュラーとして出演していたらしく、「コズミック・インベンシ
ョン」というバンドのフロントで、ドラムを叩きながら、メインボーカルを
とっていた。
リズム感が良く、音感も確かだったけれど、顔の表情は全く子供で、
今のシャープでスリムな美しさとは違い、目一杯パッツンパッツンの
ほっぺただった。
そこから考えれば、今は30ウン才なのだけれど、とても見えない。
不動産屋さんが、本多さんの娘だと思ったくらいだ。
晴屋との付き合いは本多さんより長く、十年以上になると思う。
晴屋にいた若い店員たちにも非常に人気があった。
こんな容姿の話から書くのは始めてなのだけれど、これには少し意図
がある。
もちろん顔、形や体つきはその人の個性を現わすけれど、どうもみま
さんの個性を端的に示すのは硬い頭の中にあるような気がするのだ。
だから、見た目とのギャップを感じてもらいたくて、オードリー・ヘップ
バーンと勝負できそうな容姿のことから書いてしまった。
しかし、この人は歌がうまくて、楽器が出来て、美人なだけではない。
優れた料理人でもある。
華やかな芸能生活から離れて、皿洗いから始めて、コックの立場まで
なった。
味や、匂いの感覚もすごい。
細かな香りをかぎわけ判断する。
味覚や嗅覚に集中しているだけでなく、完全に一体になっている様子
が、こちらにも伝わってくる。
それは独特で、作られたり、育てられたりしたものではない。
だから他人には理解できないことも多い。
今までの職場でも、みまさんの感覚に付いてこれる人が殆どいない。
まかないに出てきた料理でも、口に合わないと食べない。
だから、味覚という基本的な部分で孤立することも多かったろう。
料理に使った水の質まで感じ、「水が、水道水で気持ち悪い」なん
て横で言われたら、いくらプロ同士でも困惑するに違いない。
しかし、世の中、捨てた物ではなくて、みまさんの感覚に匹敵するもの
を持つ相手がいた。
若い頃はけっこう遊んでいたらしいその男は、離婚してしばらく一人で
料理作ることしかしていなかった。
その男にとっても、自分の感覚に対応するものを持つ女性に出会っ
たことが無かったのだ。
というわけで二人は恋に落ち、共に生活することになった。
「食べることは、生きること」というみまさんは、食べる中には男も含まれ
ていると言って笑っていたけれど、本多さんのどこがいいんですかと
聞くと、即座に「エッチなところ」ときたものだ。
からっと、あっけらかんとした感性で、くもりや陰鬱な感覚が全くない。
これだけ美人でスタイルもいいのに、女性らしい潤いや柔軟性とは
違うところにいる。
だから、かえって女性から妬まれたりすることがない。
そんな軽い会話の後、みまさんの本来の顔が現れる。
「んー、感覚的にもなのですけれど、料理をかたちにし、実現する力
がすごいと思います。」
まるでどこかのお姫様であるような、楷書体の答えが返ってくる。
この硬質なものはどこから来るのか。
感覚が鋭利でごまかしが出来ないし、頭の中で思い立ったら燃料切れ
まで止まれない、ブレーキの無い機関車のような性格は、攻撃的な
よりは防衛的な意味があるのかもしれない。
若い時、電車賃が無くて、道にシートを敷いて、服を売り、仕事に行
った。
まだフリーマーケットなどという物が無い時の事だ。
無鉄砲というか、一途と言おうか、やろうと思い立ったら、普通では
考えられないことをして、やりとげてしまう。
みまさんは枉駕でデザートを担当しているけれど、見た目に美しいだ
けでなく、常識に縛られない斬新さと、感覚に直線的に切り込んで
くる香りや素材感を盛り込んでいる。
それは、みまさんの性格そのものだいう気もする。
くどさや濁りや雑味の無い味という点では共通していても、本多さんの
静かさを感じる味とはある意味対称的な、ワイルドでストレートな要素
を多く含んだ味だと思う。
だから、この二人の料理の組み合わせは面白い。
しかしみまさんは、本多さんの中に自分以上の料理の実現力の可能
性を見つけたのだと思う。
そういった意味では、枉駕は二人にとって職場であり、家庭の一部で
あり、感覚の追求の場であり、世とのつながりの元であると共に、子供
でもあるのかもしれない。
夫婦でもあり、ライバルでもあるいうのは、楽しくも、厳しい関係なのだ
ろうと想像するけれど、私のような平凡な人間には出来ないことを、
二人なら実現できるだろうと思う。
夜、仕込みをしていると、片方が終わり、「帰りましょう」いうことになると
もう一方が「もう少しで切りが付くから」というと、「じゃあもう少し」とやっ
いるうちに、お互い帰れなくなってしまう、そんな日々の連続だ。
枉駕の品質はそうして維持されている。
もちろん、多分、緊張関係だけではないだろう。
この写真は二人で京都に旅行に行った時に本多さんが撮ったもの
だ。
往復深夜バスの倹約旅行だけれど、旅費はみまさんがフリマ(フリーマー
ケット)で貯めたものだ。
写真には、普段見ることが出来ないゆったりした地の表情が出ている。
他人に気を使うことが多いみまさんが、力まずに少しとろっと抜けた表
情で、いる。
その信頼を引き出せる人間が目の前にいるからだろう。
誇り高く、名誉を重んじ、フリマの女王!でもあるみまさん。
孤高の求道者のイメージのある本多さん。
二人は料理の他に、何か面白そうなものを拾ってきて活用してしまう
共通の趣味?を持っている。
刺激的な関係をこれからも続けて、二人ともよく食べるのに、きっと
太れないだろうな。
(この文章は2004年(晴暦24年)6月に晴屋通信に掲載したものです。
現在みまさんは枉駕を卒業し、自分で新しい店を持っています。
保谷駅徒歩5分にある「レ・アドン」というフレンチと薬膳を組み合わせた料理を
だすお店です。
詳しくはホームページのお知らせの欄をご覧下さい。
またレ・アドンとは「主よ」という意味のラテン語ということで、聖書の勉強会も開いて
いるようです。)

作る楽しさ耕す人たち その6 枉駕の本多敏さん 完成とバランスの先にあるもの

作る楽しさ耕す人たち

その6 枉駕の本多敏さん

  完成とバランスの先にあるもの

枉駕が東久留米に開店して今年で5年目になる。

赤と黒の強いコントラストを持った看板と、シックで落ち着いた中の

雰囲気が人目を引く。

あっさりして、素材を丁寧に扱った調理も、他には無い主張を感じる。

東京の片隅の東久留米にはちょっと似つかわしくない、高級感と洗練

された感覚を持つ店として、異彩を放っている。

月に一度の料理教室に通って、私の味付けや料理が全く変った。

さっぱりしているのに、奥行きを感じさせるようになってきていると思う。

晴屋の斜め前にあることで、私も、晴屋も大きな影響を受けている。

オーナーシェフの本多さんとの初対面を私も覚えている。

コックのユニフォーム姿の本多さんは、すごく凛々しくて格好いいけれ

ど、普段着のラフな格好だと、普通の若者になってしまう。

すっきりしたお兄さんが、いきなり店に入ってきて、「前の店をやろう

と思うけれど、どうでしょうか?」と聞いた。

その店は、中国人の夫婦がやっていて、安くてアジアっぽい味付けで

私は好きだったので、「止めたほうがいいですよ。」と言って、けん制

しておいた。

しかし、比較的安い物件で設備が整っていたことと、良い物を出して

いればどこでもやれるいう自信に押されて、本多さんは借りることに

決めた。

最初は私たちは残念に思っていたが、味を知り、これは今までの中華

料理とは根本的に違うと感じ始め、二子玉川の有名店「吉華」の料理

長で、マスコミにも取り上げられた経歴がある人だということを知り、

この店がここにあるということは、きっと凄いことなのだと認識し始めた。

抜群の技術とセンス、そして理想を求めながらも、ある物を生かして

それなりに仕上げてしまう現実的対応力は天才的といっていいだろ

う。

努力も惜しまない。

店を持とうと決心してからは、吉華の閉店後、他店へ行って鍋を振り、

(料理を作り)、朝は喫茶店でバイトもした。

人望もあり、収入もそれなりにあったに違いない。

そして、始めた枉駕は、その華やかなキャリアの割には、地味なスタート

だったかもしれない。

バブルも終わっていた。

実力の割りに低迷する中、更に晴屋に出会ってしまった。

偶然、故郷が同じ盛岡で、私とは一回り違う馬年だということもあり、

親しく付き合ってもらい、こちらは得る事が多かったけれど、本多さ

んには、手かせ足かせを付けてしまった所もあっただろうと思う。

一般に中華料理は、粗悪な材料でも美味しく仕上げるのが技術だ

し、腕の見せ所と言われている。

本多さんはその中では、薄味だけれど切れ味のある味付けをし、材

料にも、元々こだわりを持っている。

しかし、晴屋の野菜はオーバー・クオリティで、味が濃いので、味付

け無しでも美味しく食べられてしまう。

「楽です。何もしなくても、いいですから。」というけれど、力を出し切れ

ないジレンマはあるだろう。

それでも、味付けはますます薄くなり、中華的な味から離れてしまう。

濃厚で、分かりやすい一般的な味を求めて来る人には、物足りなさを

感じさせる。

調味料もある意味、中華では素材以上に大事な要素だけれど、時間

をかけながら、本多さんはほとんどを晴屋の物に切り替えてしまった。

永年使った調味料は、味の効き具合や風味など、身体に沁み込んで

いて、プロが調味料を変える事は大変なことだ。

醤油は四川料理では伝統的に、キッコーマンだし、塩も公社のピリッ

と塩辛く効くものを使う。

晴屋の調味料は、優しく素材の味を引き出す。

そのためか、開店当時の覇気に溢れ食べる人を切るような鋭さが今は、

影を潜めている。

上品で洗練され、柔らかな味だ。

これ見よがしな、プロの腕の見せ場を作ろうとしない。

自己主張を強くするよりは、素材の味を生かし、身体に優しく、心を豊

かにする料理を、追及している。

しかし正直言って、食べ続けていると、どこか物足りないのも事実な

のだ。

芸術的なその時一回だけの究極の瞬間を求めるのか、職人的ないつ

でも変らない安定した味を求めるのか。

素材の味を生かしきる事を目指すのか、来た人の満足を目指すのか。

それらのどちらかではないにしろ、どの辺に身を置くのか手探りで、

まだ自分を出していない。

これでやる、これしかないという所まで、自分を追い詰めていない。

そうした、まだ曖昧さを残した姿勢が味に出ているのかもしれない。

「全部出してだめだったら怖いからまだ全部はやっていない。」と自覚

している。

一般にプロというのは、ある専門の分野で技術を持ち、責任を持つか

わりに、コストを要求する人たちだ。

しかし、本多さんは他のコックたちが持つ、味覚だけは部分的に鋭い

けれど、他のところは鈍く、新しい事に取り組めずに、今まで通りを

続けるだけの肥満した体と感性とは、ほど遠いところにいる。

若々しく、繊細で、傲慢さや鈍さを感じさせない。

これだけの味と完成度がありながら、まだ力を残し、先があるというのは

凄いことだ。

その枉駕と本多さんに、最近少し変化が起きている。

枉駕で使うスープは2種類あって、鶏のささみと豚の赤身の挽肉でとる

清湯(チンタン)という超高級スープと、毛湯(マオタン)という鶏のガラでとる

汎用の物がある。

以前料理長をしていた吉華では、老鶏(ロウチイ=年とった廃鳥で肉が

固く食べられないがダシはよくでる)を使っていた。

しかし、枉駕では質のいい老鶏が手に入らず、普通の鶏ガラを沢山

使う物量で味を出していた。

それが最近、活性水でお馴染みのBMWの技術を使った無薬の鶏の

ガラが手に入るようになった。

これが、すっきりしているのに、深いコクがあってとても美味しい。

例えば湯麺は、以前の物は少し毛湯の臭みがあって私にはきつかっ

た。

酢と山椒を入れてバランスをとっていたものが、今度のはさっぱりして

いて、なお深い旨みと満足感がある。

今まで出来なかった切れ味あるコクを料理に加える事がことができる。

同じく無薬のむね肉ともも肉も加わり、枉駕は新しい武器を手に入れ

たことになる。

本多さんは今、37歳。

今年少し迷いながらも、店の契約の更新をした。

次の5年が過ぎれば、42歳。

厄年を過ぎ、より自分の世界を築いた本多さんを見るのは楽しみだ。

その時には、もう一度本多さんについて、もう少しましな文章を書ける

よう、よりレベルアップした枉駕の要求する食材を揃えられるよう、

私も頑張っていきたい。

(この文章は2004年(晴暦24年)5月に晴屋通信に掲載したものです。

次の契約更改も済ませ、店の内装も構想しながら進めています。

より静かで、柔らかなものになっていきそうです。

看板が今は外されてます。

中華の文字はどこにもありません。

ちらし等にはオーガニックOHGAおうがと書かれていることが多いようです。

中華にこだわらず、素材の良さを生かし、食べた人が元気になるような食事を

提供しようと言う姿勢がうかがえます。

これは人によっては味付けが物足りないと言う人もいるようだが、看板から中華

の文字が消えてから、かえって中華に帰っている部分あるように感じ興味深い

ものがあります。

お客さんによって味付けを変化させているようでもあり柔軟な対応ができている

ようです。)

作る楽しさ耕す人たち その5 プチフールの宮沢ロミさん 繊細と野性が求める和の味

作る楽しさ耕す人たち
その5 プチフールの宮沢ロミさん
   繊細と野性が求める和の味

いつものように一応チャイムを押すと、応答のないまま玄関のドアを開
けた。
晴屋のための焼きたてのパンが、湯気がたったまま箱に入って用意
されており、その向こうのダイニング・キッチンでは数人の私とほぼ同年代
の女性たちが、忙しく、にぎやかに働いている。
宮沢さ~ん?ニンニク以外に苦手なものは~?(数メートル離れてい
るので、トーンが自然と高くなる)
「男のひと~」
じゃあ~、女装して、待ってま~す。
こんな、他愛のない会話がインタビューのとっかかりだ。
ここは、プチフール。
小さなかまどという意味だ。
玄関脇の十字路に面した所が一坪ほどの店になり、さっきのダイニング・
キッチンを挟んで反対側の二坪ほどのスペースに、石釜のパン焼き器
やこねる機械などが所狭しと置いてある。
実態は、宮沢家の台所そのものだ。
パン屋を始めて、13年目。
外国産小麦を原料に使い、イーストと天然酵母を半々で使う、比較的
簡単な「主婦でもできる」方法からスタートした。
10年前、ハード系の、固くて重く、味も噛み応えもあるパンを国産小
麦と天然酵母で焼いてみたいという宮沢さんの思いと、その時点で扱
っているパンに満足していなかった晴屋の要求が一致して、名作
「胚芽食パン」が生まれた。
国産小麦と洗糖と塩の割合で味の基本的なバランスを決め、発酵の
時間と方法で味の深さを求め、焼き時間で酵母の発酵臭を押さえ
香ばしさを加えた。
何度も試作を重ね、私たちもその都度ああでもない、こうでもないと
口を出した。
だからずい分と口をきく機会があり、言いたいことを言える間柄のようで
ありながら、実際にどんな事を考え何をしたいか、聞いた事はなかっ
た。
いつも忙しそうで、家の中にこんなに人がいて、疲れないのだろうか?
それでも晴屋にはいつも新しい物を試作してきて、遊んでいる節も
見られる。
「前に考えるなんて、いや。パン作りは誰に教わったわけじゃないし、
自分で探っていくものなのよね。難しいし、分からないから面白い。
冒険の感覚が好きなのかもしれない。」
パンはそんなに好きじゃないって聞いたけど、何が楽しいのだろう?
「形を作るのが面白い。絵はだめだど、立体の感覚が好きみたい。
焼いて形になっていくでしょ。
星野酵母も最近は品質が安定してきてるみたい。前の社長が亡くなっ
てから講習会もよく開いているみたい。でも、意地でも教わらないし、
自分で考えて作っていかないと、意味ないし。」
元々、しぶといんですか?
「父親が工場やっていて、いつも他人が家の中にいるのは、慣れて
るから。若い頃は、何も長続きしなかった。フリーターを転々ていう感
じ。パンのおかげで、一つのことをやれた達成感がある。始めた以上
は、止められないし、縛られてもいる。自分で作ったんだけど。ここま
でやらなきゃいけないっていう設定するのが好き。性格的な悪さかな。
布団で寝るとかえって疲れて、朝起きられないから、ソファーで寝て
る。」
でも、どうして天然酵母のパンなんだろう?
「人がやるのは、いや。若い頃は、学生運動とかあって、その流れか
な。
パン屋になりたいと思ったのは、フランスパンだった。こんなの焼きた
いと思って始めたんだけど、(パン屋を始めてから)研修でフランスに
行ってパン作り見てたら、ダラッとした生地て大丈夫かなって思ってい
たら、となりでヤマザキパンの偉い人が、こんなの駄目だうちの方が
技術があるっていう顔してるんだけど、焼きあがったらちゃんとなって
いるのよね。身体に沁みついたものには、敵わないと思った。
好きなパンは、きなこパンとリュースティック(手ごねパン)。」
捻じって揚げたふっくらしたパンにきな粉の甘さと香りの良さが不思議
なほど合う、きなこパン。
国産小麦を自然発酵させ、味の深みはたっぷりなのに、水分が多い
せいかもちっとした感覚のある、手ごねパン。
そして、一度食べたら病みつきになると、一部で熱狂的に支持され
ているライ麦パンも、もちもち感がありどこか柔らかで優しい味わいで、
他には無い美味しさだ。
どれも、日本的な味がする。
素材感があり、バランスよく、でしゃばらない。
欧米からやってきて、目新しさやエキゾチックを目指すことが多い
一般のパンの世界とは明らかに違う。
一見平凡のようで、実は極めて個性的だ。
こんな「和」のテイストを、純粋日本人ではなく、白系ロシア人の血が⅟₄
いり、自己の要求をはっきり自覚して主張する宮沢さんが求め、作る
のは、面白い。
最近娘さんがスリランカの人と結婚して、孫が出来た。
何か、変ったことはありますか?
「ちょっと寂しい感じ。もう世代が変ってきてるわけでしょ。でも、ま
だまだ、やるけどね。」
そう、そうでなきゃ。
この懲りないしぶとさがなければロミさんとは言えない。
繊細で野性的、豊かでいい加減。
いつも同じものを作らない、作れない、プチフールのパンはこれから
も、私たちを飽きさせず、楽しませてくれるだろう。
(この文章は2004年(晴暦24年)4月に晴屋通信に掲載したものです。)

作る楽しさ耕す人たち その4 ロアンの岸さん 老いたる妖精の珈琲はうまいか?

作る楽しさ耕す人たち
その4 ロアンの岸さん
   老いたる妖精の珈琲はうまいか?

笑った顔が、穏やかでにこやかだ。
目尻のしわや愛想の良さも、その印象を深くさせる。
森の中でいきなり会っても、恐怖心を持たずに受け入れてしまうだろう。
力まない、欲の無い、自然な雰囲気を持っている。
若い頃は、中性的できれいな顔立ちで、妖精のようだったかもしれな
い。
パートナーである、創立50年という私立保育園のパイオニアである豊
川保育園の園長・荻村しをりさんは、いつも元気いっぱいだ。
映画館で興奮して靴のかかとを床に押し付けていたつもりが、実際は
岸さんの足の上だった。
痛いのを一言も言わずに最後まで我慢していたのが、二人のなれそ
めらしい。
しをりさんは、明るく真直ぐで、おおらかな感性を持った人なのだ。
そして数年前の二人の会話。
まじまじと改めて顔を見られて、「汚くなったわねえ!!」。
自家焙煎珈琲工房ロアンの主、岸さんはそれも笑って受け流す。
東京のはずれ、都市計画から取り残され緑が色濃く残る街、東久留
米の駅から離れたさびしい商店街の一画、もう少しで狸の親子で有名
になった黒目川にいきつくという所に、ロアンはある。
店から見えるのは、紫陽花と畑と野菜の直売所、たまに行き来する
通行人だけだ。
だから、友人の看板屋さんが作ってくれた、センスの良い緑色のテン
トや看板も周囲と調和し過ぎて目立たない。
店の中は、ブーブーこと栗ちゃんが作ったテーブルと椅子、私が作っ
た棚に珈琲や紅茶、雑貨が並んでいる。
周りがなんとなく協力してしまうのも、やはり人徳と言うべきか。
そして、いれてくれる珈琲、焼いた豆はめちゃめちゃ美味だ。
おまけに安い。
珈琲、紅茶が一杯300円。
それなのにお客さんをみかけることが、少ない。
不思議だ。
時々、碁を打ちにくる人がいるけれど、その時はいつになく真剣な顔
をしている。
後から来たお客さんには一応、「まいどー。ちょっと待ってね」と愛想
はいいけれど、どうも迷惑そうだ。
お客さんの方が気にしてしまうか、全然遠慮しない人しか常連になら
ないかもしれない。
珈琲を入れるのに特に変ったことをしている気配は無い。
水も水道水だし、フィルターもごく普通のものだ。
それなのに、何かが違う。
晴屋でも置いてるロアンの無農薬珈琲豆ペルーも好きな人には強く
支持されている。
やや深煎りで香りがよく、すっきりして、もたれない。
こんなコーヒーは飲んだことがない、理想のコーヒーだと言われることも
ある。
でも、本人はあまり珈琲は好きではないらしい。
珈琲よりは紅茶を好む私とは、意外に共通点がある。
同じ年(昭和29年)の生まれで、近くの氷川神社に一緒に厄除けに
いったこともあった。
27歳で自家焙煎工房の先駆け珈琲実験室に住み込みで薄給の
店員になり、その頃私は八百屋を始めた。
33歳で店を持ち、私もその頃東久留米に店を作る。
しかし、行動パターンは反対で、考えたことはすぐに形にしないと気が
すまない私と、構想10年でもまだ動かないロアンさん。
静かにそっと生きる喜びを知っているのだろう。
しかし、意外に激しい面もある。
一度相手を許さなくなると、自分の世界に決して立ち入らせない。
表現はしなくても、好き嫌いははっきりしているのだ。

コーヒー好きじゃないのに、どうしてコーヒー屋始めたの?
「コーヒー屋は楽だから。そんなに好きじゃないけど、飲むよ、俺も。
(仕事は)いろいろ、転々としたけど長続きしなくて」
コーヒーは美味しいけど、どうしてなんだろう?
「う~ん。わかんない。特別なことは何もしてないよ。」
でも、味が違うのはどうしてなんだろう?
「さあー。どうしてかなあ。こだわりは、無いんだよ。」
コーヒー焼くとき、何を心がけているの?
「同じ味に焼きあがるタイミングかな。」
どういう味にしたいと思って作るの?
「特に、ないんだよ。」
(比較的気が長い私もいい加減にじれてくる・・・・少し強い調子で)
じゃあ、どういう味が好きじゃないの?
「う~ん。土っぽい、ほこりっぽい味は好きじゃない。すっきりして飲
みやすいのが、いい。」
ほら、ちゃんと好みがあるじゃない。
「ほんと~。」

たったこの言葉が出るまでに、約30分の押し問答があった。
感性も、好き嫌いもあるのに、表現しない個性なのだ。
私にはこの人が、森の住人の末裔であるような気がしてならない。
木々の間にいるときは生き生きしていられたのに、不幸にもこの時代
に降り立ってしまった。
末っ子に生まれ家族に疎まれ、世間の波に流され、「元祖フリータ
ー」として職を転々とし、愛想の良さでなんとか切り抜けてきた。
今は森の主のような、しをりさんの傍らに身の置き所を見つけた。
それでも何か小さい物に命を吹き込む力はあって、コーヒーをいれ、
豆を焼いている。
他の人には無い、細やかな不思議な力が、あるのかもしれない。
少しは老いて、汚くなってしまったかもしれないが、妖精のいれるコー
ヒーは、やはり格別だ。
(この文章は2004年(晴暦24年)3月に晴屋通信に掲載したものです。
その後、ロアンは改装し明るく広くなって入りやすい雰囲気になってい
ます。
晴屋とはコンセプトの違いがあって今は品物のやりとりはありませんが、
これからもゆったりとしたペースを貫いて頑張って欲しいと願ってい
ます。)

作る楽しさ耕す人たち 番外 可愛くない同志

作る楽しさ耕す人たち
番外    可愛くない同志

小平さんとは、二十年以上の付き合いがあった。
その間、りんごのシーズンの間は毎週電話で話をし、何度か顔を合
わせ、水沢に遊びに行ったこともあった。
喧嘩や言い合いには一度もならず、嫌な思いもしたことがない。
それは全く、小平さんの謙虚な人柄のおかげだけれど、二人の間に
美しい友情があったと言えば、嘘になると思う。
ある種の信頼関係はあったけれど、心を開き、うちとけた感じとは違う。
二人が共通して持っている、他人と絡んでいるよりは一人黙々と仕事
をこなす方が好きで、他人とは少し距離を置いて付き合う性質にも関
係はあると思う。
しかし、私が感じるところでは、その根はもう少し深い。
私から見ても、小平さんは質素で静かな人だった。
内に炎を持ち、信念のために物事を突き詰めるのに冷徹なところが
あり、それが他人から疎ましく感じられる時があったとしても、謙虚さ
を感じない人はいなかったろう。
りんごだけでなく、絵と言葉の世界を愛しみ、大事に守り育てた。
しかし、残念ながら、私はどうもそのへんが不遜なようなのだ。
絵は好きだけれど、集中して描いている感覚が好きなだけで、他人
の絵(有名な人たちも含めて)に興味が無いし、上手くなろうという向
上心も無い。
言葉も仕事上よく使うけれど、(八百屋という仕事は運ぶ体力と説明す
る力があれば成り立つ)、言葉は使うもので、使われるものではない
と思っている。
人間のコアを、感覚の凝縮感や精神の軌跡といった動きとして感じ
ているので、言葉に固定化し、こだわる人の気持ちが理解できない。
わがままで、不遜で、知性へのある種の危険性を持ってもいる。
大抵の人が私への初対面で感じる、歳の割には爽やかですっきり
したイメージと、暫くして分かる荒々しさのギャップに驚かれることがあ
るけれど、小平さんはそのへんをはっきり感じていたのではないか
と思う。
私にとって小平さんが可愛くないと感じた瞬間があったのと同様に、
小平さんにも私は可愛くない存在ではなかったか?
もちろん、小平さんは謙虚だからそんな表現や感覚は持たなかった
ろうけれど、それに近いものを感じていただろうと、私は想像する。
しかし、違いをお互いに意識していたとしても、先ほども書いたように
言い争いになった事は一度も無い。
基本的には私は八百屋であり、小平さんはお百姓であり、流通業者
と生産者だ。
片や安く買いたい、片や高く買って欲しいに決まっているけれど、
二十年の間、セールの時を除いて価格の交渉を、お互いに一度もし
たことが無かった。
晴屋に来るりんごは、もみがらに入って送られてくる。
それが一番りんごの鮮度を保ち、痛みにくいからだ。
それは一般の流通の規格にのりにくい、大きすぎたり小さすぎたりす
るものや、多少形がいびつで、プラスチックのトレーに並ばない物も、
扱えることにもなる。
私たちは気にせず引き受ける。
美味しければ、それでいいからなのだけれど、小平さんはプロだから
売りにくいものを売ってもらっているという自覚はあったろう。
だからこちらが何も言わなくても、価格を売りやすく設定してくれたり、
品質の状態をニュアンスで伝えれば、きっちりと次回には結果で帰っ
てきていた。
それは、敵対や争いではなく、協力関係そのものだった。
お金や現実よりも、内なる精神の世界を重んじるということでは、私
たちは共通していた。
この世とのつながりと責任においては、やはりお金や現実という形あ
るものに負けないよう、戦っていかなければならない。
その渦の中で、互いに力を認め合っている者同志、いわば戦友のよ
うなものだったように思う。
私は数少ない戦友を失ってしまった事になる。
というよりは、貴重な先達を一人失ったというべきか。
小平さんより四歳年下だけれど、私にはもう孫がいる。
それなのに、私はまだ青臭い。
分からないものに向かって、あての無い戦いを続けている。
誰に頼まれたわけでもないのに、いたたまれずに、書きたい衝動だ
けで、この文章を書いている。
私にとって、大きな存在だったのだ。
こんな言葉を連ねても、空虚な感覚や寂しさをあがなえるわけでは
ない。
じっと冥福を祈り、その精神が私の内にとどまって、少しでも謙虚とい
うものが理解できたら嬉しい。
そうしたら、自信を持って小平さんが私の中に生きていると言えるか
もしれない。
(この文章は2004年(晴暦24年)2月に晴屋通信に掲載したものです。)

作る楽しさ耕す人たち その3 小平さんを悼んで 動じない精神と可愛くない精神から

作る楽しさ耕す人たち
その3 小平さんを悼んで
   動じない精神と可愛くない精神から

小平さんが、煙のように消えてしまった。
いつかは来ると思っていたけれど、受け入れざるを得ない圧倒的事実
として、死というのはやってくる。
離れたところにいる私のような人間にとっては悲しいという肉体的な感
覚よりは、心にポカッと穴が開いてしまったような感じがする。
家族や周囲の私たちだけでなく、本人にとっても、予想以上に早い最後
だったと思う。
しかし、不思議とまだどこかで私たちを見ているようで、心の中に生き
ているようでもある。
今までに知らない死との向き合い方だ。
今こうして書き始めている文章のきっかけは、以前書いた小平さん
の紹介の記事にある。
全体としては気に入ってくれたのだけれど、「動じない知性」という
表現が格好良すぎる、酒が飲めないのは若い時から「痔主」だったか
らとか文章を変えてくれないかと本人から注文を受けた。
それには私も心当たりがあった。
「動じない知性」は実は最初は「可愛くない知性」と下書きしたものだ
った。
しかし、その表現だけではいかにも説明不足だし、誤解を与えそうな
ので、無難な言葉に変えたのだった。
そう電話口で伝えると「それなら分かるネ」と納得していた。
その「可愛くない」という表現が初めに浮かんだのは、インタビューを
依頼した時だった。
「シリースで生産者を紹介したいので、松田さんの次に岩手繋がりで
お願いします」と言うと、「生きてるうちに書こうっていうの?」とこちらの
意図を見透かされてしまった。
私だったら分かってもそんなことは言わないよな、可愛くない!と思っ
た。
しかし、その言葉には皮肉も感情の反発も含まれていなかった。
ただ、感じ取った事実、真実を冷静に言葉にしたものだった。
これこそが可愛くないほどの知性なのだ。
この本質を見抜き、意識し、言葉に置きかえる力は、死だけでなくあら
ゆることに向けられたに違いない。
本質は知ったからには、突き詰めないではいられない。
知性と精神への責任に於いて小平さんはそれを続けた。
それだから、本と絵の世界に浸る喜びを知りながら、多くのエネルギ
ーをりんごにかけたのだった。
喪主である奥さんの玲子さんの挨拶に次のような言葉がある。
「夫は、強靭な精神の持ち主であったと同時に、繊細な心の持ち主
であったと思います。その精神力と、繊細で純粋な感性のはざまで、
生身の体のほうが根を上げてしまったのだと、今は理解しています。」
強靭で、可愛くなくて、動じない精神。
小平さんの精神は確かにそうしたもので、傍にいるものにその存在
を感じさせ、ある人にはうとましく、ある人には魅力的に映った。
しかし、実際には精神というものは見ることも、触ることも出来ない。
あると思えばあるし、無いと思えば無いものだ。
知性という本質を認識する力と、感性という現実と係わる二つの別
の力に支えられ、ホロスコープのように幻のようでありながら、感じ
とることの出来る人には、本質のエッセンスそのものである精神。
精神が、不滅であり、永遠だというのは、伝染性を持って、近づく者
を染め、伝えていくからだ。
人間は精神によって、一兵士となって人を殺すこともできるし、ジャン
ヌ・ダルクのように自らの命を投げ出して理想を追求することも出来る。
それは肉体だけでなく、言葉や芸術や作品、時には食べ物の中にも宿る。
小平さんの精神は、静かで、強靭で、高潔だった。
それは故人を直接知る私たちにも伝わり、りんごを食べる多くの人た
ちにも伝わっている。
本人が書き残していった文章の中で、「二人の娘の親になれたこと、
これ以上の喜びを感じたことはありません」と思いを込めていた双
子の女の子たち、悠水(ゆみな)ちゃんと存野(ありや)ちゃんも、「りん
ご作るの止めないで、私たちも手伝うから」と言っているという。
来年度は畑を3割ほどにし、家の周囲に限定してりんごを作り続ける
ことにした。
小平さんの精神を最も受け継いでいるのが子供たちだとすれば、最も
共有してるのが奥さんの玲子さんだ。
「しかし、どんなに厳しい現実であれ、その認識を夫と共有している
ことが、わたくしの励みになりました。希望はもとより、絶望でさえも、
共通の認識を持っていることで、思い出も、将来のことも、率直に話す
ことが出来ました。」
小平さんの書いた文章に魅かれ、逢ってみて、押しかけ女房になっ
てしまい、小平範男という男を支えとし、水沢というところで生きてきた
玲子さん。
子供たちが生まれた年に始めた10年日記の次の一冊を託されて、喪
主挨拶の最後に、前の10年日記に挟まれていた小平さんの生きる
指針でもあったと思われる言葉を紹介している。
これは、子供たちの名前の由来であろうとも書いてある。
「長いものに巻かれるな
媚びるな  
不遜になるな
卑屈になるな
一個の人間としての自分を見つめ
永遠に向かって
ゆるやかに流れる
大河のように  
生きられよ」
精神を感じられる者は永遠を信じられる。
今、雪が積もる水沢にも、やがて
季節は巡り、春が来て、りんごの花が咲く。

(この文章は2004年(晴暦24年)2月に晴屋通信に掲載したものです。
りんごの出荷は玲子さんが続けられています。
ある流通のプロが「人が変わったら味が持つのは3年かな」という指摘がありましたが、
天候の異変が続く中、相変わらずの美味しいリンゴが出荷され続けています。
草刈や農薬の散布、そしてお手伝いにくるお年寄りたちとのやりとりなど、大変なこと
が多いと想像できますが、その中で品質を維持するというのはすごいことと思います。)

作る楽しさ耕す人たち その2  りんごの小平範男 さん 裸電球の下のりんごのような緊張

作る楽しさ耕す人たち
その2  りんごの小平範男さん
  裸電球の下のりんごのような緊張

「せっかちな園主の作るりんごが美味くなったためしがないとサブタイトルに
書いといてよ。色が付くと本能的に採りたくなっちゃうんだけれど、それを理性
でカバーできるかということなんだよね。年数は関係ない。大学でて2年位ぶら
ぶらしてからりんごでも作ろうかなって思って、親父の作り方見ててだめだな
って思った。それで園芸試験場に行った。これでも一応は勉強したんだよ。
高校出たばかりの連中と一緒になって研修生をやったお陰で基礎を積むこと
ができた。学ぶ方法が分かって、何とかやっていけるかなと思った。」
草を徹底的に刈って堆肥として使うのは、そこで教わったんですか?
「これは、そうではないね。昔っからやっている人もいるけど、農協の指導は除
草剤使って堆肥はしっかり入れて味はよくしましょうというのだからね。それで
は腐植は増えない。(だから本当には土はよくならない。)でも、草が伸びてか
らでないと倒すのがもったいない。大きくなり過ぎると邪魔だけどね。」
雑草が伸びてからではないともったいなくて刈れないという感覚は他の人か
らは聞いたことがない。
春から夏の暑い盛りまで、黙々と草を倒す小平さんの姿の後ろには、これが
着実に実になるという確信がある。
園を歩きまわり、じっとりんごを見つめ、成熟の時を待つ。
そんな時は、豊かな実りへの期待と天候の異変などへの不安で様々なものが
去来しながらも、何回やってもドキドキと胸をときめかすのだろうか。
見た目には赤く熟しても、味がのっているとは限らない。
風で落ちたり、霜の害にあう心配もあるけれど、最良の時をじっと待つ。
その感覚を小平さんは、理性という言葉で言った。
何度か訪ねたことがある小平さんの部屋は、本に囲まれている。
蔵書という言葉が似つかわしいセンスのいい本が棚にきちんと並んでいる。
美術関係の本も多い。
しばらく前からそこには、小学生になった双子の女の子たちが書いた絵が加わ
っている。
今までにない動きや活気が感じられるけれど、静かに力強く話す小平さんは
相変らずだ。
馬鹿騒ぎしたり、酒を飲んで憂さを晴らしたりはしない、動じない知性。
しかし、実際にりんごを育てる中、日々の判断は、やはり感覚だ。
収穫前に3回する摘果。 
どのタイミングで、どれだけ摘むか。
収穫量や品質を、大きく左右する。
その忙しい時期には近所のベテランのおじいさん、おばあさんたちが手伝いに
来てくれる。
けれど小平さんはお年寄りたちを「いつまでも初心者。いくら教えてもダメ。仲間
と話してお茶飲むのが面白くて来ている。」と言う。
どうしてもこれでなければ、という感覚があるのに伝わらないジレンマだ。
「年寄りはもったいながって落とせない」のだそうだ。
それではいい味のりんごは出来ない。
見栄えが良く、量が採れて、さっさと出荷してしまいたいお年寄りたちとは違う
感覚で生きている。
そして、収穫。
その待ち遠しい日は、わざと晴天の日を避ける。
晴れた日にはりんごの色がよく分からないから、成熟の判断が難しい。
極めて微妙な感覚の世界だ。
実は今年、小平さんは体調を崩している。
シーズンの前、夏の始めに「今年は一割しか収穫しないで畑を放棄するから。
扱う品種は限定するかもしれないけど、晴屋さんには優先的に出すから。」と、
宣言されてしまった。
大きな出荷先のJACに断りの電話を入れたら、社長が挨拶に来たと言う。
そんな状況で、晴屋だけには小平さんのりんごがあるのは、有難くはあるけれど、
無理をさせているのではと心苦しくもある。
でも正直言って、多少欠品したりしても他のりんごを売る気がしない。
野の花のような爽やかで雑味が無く、すっと身体に入って元気になる味。
そして、雨が大変多く日照が少なかった東北地方の夏だったのに、今年のりん
ごも味がいい。
水々しく美味しいとしか感じない私たちだが、本人は味に納得していない。
「酸味が少なく、味が薄め、深みが無い」と言う。
生産者の体調が農作物の味に出るというのが私の持論なのだけれど、そんなこ
とを微塵も感じさせない。
この美味しさは一体どこから来るのか?
それが知りたくて迷惑も顧みず、何度か電話でのインタビューに挑戦した。
小平さんが住む岩手県水沢市からそう遠くは無い盛岡が私の出身地だという
こともあって、親しくつき合わせていただいているけれど、考えて見ると改めて深
く、いろいろな事を聞いたことはなかった。
今回のインタビューで、もう一つ聞いてみたいことがあった。
収穫したりんごの選別の感覚だ。
小平さんは今、収穫の仕事には参加していないけれど、選別は一人でしてい
る。
りんごは畑で見た時と、作業場で見た時は色が違う。
それを一つ一つ眺め色づきや形から味を想像し、手にとって触って熟度を
確かめ、右手の人差し指で軽く弾いて中の異常を確認する。
シーズンの間、その爪は少しづつ磨り減るので全く伸びないという。
人には決して任せない仕事だ。
きちんとした花に付いていたか?、窒素分が多く大味ではないか?、色のりが
悪くても青味が抜けてちゃんと熟したかどうか?
それらを色や感触、爪で弾いた音で感じる。
その感覚を書きたくて始めたインタビューなのだけれど、やはり実際にはわか
らない。
裸電球の下、一つ一つを手にとって集注している小平さんの後姿と、りんごの
ように固く締まった緊張感を感じるだけだ。
けれどそれでいいのかもしれない。
その感覚は小平さんだけのもので、真似して出来るものではない。
その集注に生み出されたものを味わい、充ち足りて満足する。
それは、音楽や絵画に似ているかもしれない。
やっている方は必死なのに、聞いたり見たりしている方は癒され、心豊かに
なる。
でも、出来るなら食べている人にこの集注を知ってもらいたい。
それが少しでも感じてもらえたら、この文章の意義はあるのだけれど。
(この文章は2003年(晴暦24年)12月に晴屋通信に掲載したものです)