カテゴリー別アーカイブ: 原発と放射能

晴屋の青い扉 その83 毒と薬の境界

晴屋の青い扉 その83
毒と薬の境界

少し前に、CDの企画と製作をし
ている会社から電話があり、試聴
して、できたら取り扱いをしてほ
しいという。
晴屋のホームページに音楽のこ
とがたくさん出ているので連絡し
てみたという。
ヒーリング系の音楽だけをやって
いて、好評をえているそうだ。
個人的には癒し系には興味がな
いけれど、偏見を持たずに一度
は聴いてみようと思い試聴してみ
ることにした。
送られてきたファイルを開くと数
十種類のそれぞれに得られる効
果の違う音楽が並んでいる。
ピアノや弦楽器などのアコーステ
ック系の音源が多い。
録音の状態も良く、演奏の技術
も高く、それぞれに構成も考えら
れている。
時間とエネルギーをかけて作られ
たということが納得できる。
洗練され、上品で、整っており、
どこにもくもりや欠点がみえない。
生活の猥雑さがなく、私たちの感
覚をおびやかし迫るものもなく、
すべてがきれいに磨かれ、整え
られている。
けれど正直言って面白くないし、
また聴きたくなるということもない。
そう、ここには毒がないのだ。
これでは生きていることにならな
い。
後日、再度電話があった時に、
「よく出来ている音楽だと思いま
すけれど、生活感を感じないの
で、暮らしを見つめなおすという
晴屋のコンセプトと違うので」と
言って、お断りをした。
その時に、毒というものも少しは
必要なのだなあと思った。
毒は不必要で、健全な生活の妨
げになるから毒なのだけれど、毒
をもって毒を制すという言葉があ
るように、毒になるものは薬として
使うこともできる。
刺激として利用することで、身体
の隠された働きを高め、生命力を
誘導できる。
毒と薬の境目はその濃さの差と
感受性とのかかわりで決まる。
ホメオパシーというヨーロッパや
インドで広く取り入れられている
医学では、極々薄くした症状を
誘発する物質を身体に取り入れ
ることで治療をしている。
症状に有効な薄さと、身体に害
のある濃さとの差はいったいどの
へんにあるのだろうか。
感覚としてつかむのはとても難し
い。
震災以降、晴屋でも放射能の測
定をしていたことがある。
α、β、γ波を検知し、CPMとい
う一分間の数値を表示できる比
較的優秀なガイガーカウンターを
買った。
食品の放射能値を調べるには、
まず環境中の放射能値を計らな
ければならない。
CPMの値は20~60の間くらいで
かなり大きな変動がある。
100回くらい計ると平均の値をだ
すことができる。
その日によって、何故か値が違う
ので、毎回計らなければならない。
晴屋では2時間かけて120回の
平均値をだした。
それから検査する食品のCPMを
2時間かけて計る。
その数値の差で、50Bq/kgまでの
推定値を知ることができる。
数十の環境中の値の1/10の数個の
放射能値の違いで、50Bq/kgくら
いとなる。
けれどこの測定ではそのくらいの
レベルが限界で、測定しても数値
はでてこないので自分たちでの
測定はやめてしまった。
それにしても数センチのセンサー
の中を毎分数十個の放射線が
通り過ぎていく。
宇宙から来たもの、岩盤などの
自然の中にあるもの、核実験や
チェルノブイリ、福島からなど、い
ったいどれだけの数の放射線が
私たちのからだを通過している
のか。
飛行機に乗れば当然相当量あ
びることになり、医療でも頻繁に
使われ、ラドン温泉などというあ
えて放射線を浴びるものもある。
放射能も少ないのなら良いのか、
どこが限界なのか、まったく理解
することができない。
ただ言えるのは、濃さという数の
ことだけでなく、私たちの身体の
感受性や免疫力がとても重要だ
ということだ。
放射能が直接遺伝子を壊してい
るわけではない。
活性酸素を発生させ、それが遺
伝子に悪い影響を与えるのは、
添加物や毒、ストレスなどと変わ
ることはない。
どれだけの柔軟さや可動性を維
持できるかが、体力の素となって
いる。
強い刺激に耐えられても、鈍くて
は、新たな刺激に耐えられない。
頑強に見える人が、病気や怪我
であっという間に亡くなってしまう
ことはよくある。
小さな刺激に反応できても、耐え
る力がなければ、積極的に前向
きで生きることはできない。
毒と薬を分けるのは、私たちの可
動性の大きさで、それがなければ
疲れやすくて、すぐに切れてしま
い、自分の力を発揮できない。
けれど体力を伸ばすのに大事に
守り、庇っているだけでは育てる
ことはできない。
小さい子どもが転んだときに、す
ぐに手を貸すことで、かえってそ
の子の自発性を奪って、本当の
成長を妨げていることはよくある。
やさしさを気取った安易なヒュー
マニズムが世の中に蔓延している。
「カワイソー」という軽い言葉は、
相手を思っているのではなく、発
している自分を「いい人」だと勘
違いしているか、自らの生命の勘に
確信がなく不安を押し付けている。
刺激をなるべく与えないのでなく、
それに耐え、それを糧として個性
を伸ばす積極的な感受性を育て
る視線と工夫が必要だ。
休み守らなければならない時も
もちろんあるし、放っておいて自
由にさせておくことがベストの時
もある。
毒と薬を分けるのは私たち自身
であり、刺激を生かして積極的に
使えなければ生命として生きて
いることにはならないだろう。
毒にも薬にもならない、というの
は何の役にもたたないという意味
の喩えだけれど、毒も薬もないの
は命の感覚からもっとも遠いもの
だ。

小さな宇宙の作り方 その2 民主主義国家で生きる

小さな宇宙の作り方 その2
民主主義国家で生きる

私たちが暮らす民主主義の国。
国民の総意が国を動かし、大多数の人が自由を楽しみ幸せに生きら
れるはずです。
けれど今、満ち足りて心静かに日々をすごしている人はどのくらい
いるのでしょうか。
人間は仕事をする生き物として位置づけられ、社会の一駒として責
任を果たすことを求められています。
そこから抜け出し息抜きをする機会として、ゴルフやリゾート、絶え
間なく流されるTV番組、ネットの情報や現実を離れたゲームの世
界があてがわれます。
同時に社会が巨大化しシステムの不備が増大して仕事のストレスは
より多くなり、ネットに拡散するクレームを恐れて仕事はよりマニュア
ル化し個々の責任はますます重いものとなります。
その憂さを晴らすために、与えられた楽しみへの依存はより大きくなり、
ケータイやパソコンの新型、新しい商品が次々と現れて私たちの前を
通りすぎ、それによって豊かになるどころか心も財布も貧しくなってい
きます。
そのサイクルから逃れるためには、自分独自の回路を持つ必要があ
るでしょう。
医療に頼らず自身の健康を保ち、学校で教えてくれないことを学び、
心から美味しいと思えるもので生活を形作る、そんな暮らしは可能
でしょう。
しかし個人の充実では対処できないものも多くあります。
原発や放射能、政治の荒廃による暴力や戦争の問題を避けて通る
ことができません。
それにしても今回の参院選の自民党の圧勝には驚かされます。
ほとんどの人が現状を良いとは思っていないのに、見せかけだけの
とりあえずの景気対策と分かっていながら自民党を支持するのか
不思議でなりません。
精いっぱい想像を広げてイメージを持とうとしてみると、今の暮らしに
執着し、痛いこと、疲れることを嫌う人たちの姿が浮かびます。
この世に生を受けたのだから、どっぷりと現状に浸かっていたいという
感じなのでしょうか。
確かに日本にはまだ良いものがたくさん残されています。
他人を思う細やかな心遣い、自己を犠牲にして人に譲る精神、労働
を尊いものとして地道に働く人を評価する謙虚さなど、他の国では
あまり例がないようです。
けれどこれらは自民党が守り育てたものではありません。
中央集権的な天皇制や幕藩体制はそのまま明治政府に受け継がれ
ました。
しかしこれらとは全く異質な、地方それぞれに根ざした暮らしが脈々
と受け継がれていました。
集落の寄り合いの話し合いでは、全員一致を原則とし、一人でも反
対者がいれば、何日でも話が続けられました。
ついに一致しなければ、これで話はおしまいということになり各自の
自由となりました。
京都や江戸の都会的洗練とは違った、その自然や土地に根付いた
確固とした暮らしがありました。
それは根強かったため、尊重され一定の領域を形作って、中央の力
も立ち入ることは出来ませんでした。
こうしたものが日本人の、自然とともにあり他人を思いやる精神を守
り育てていたのです。
しかし明治以降の近代化とともに、学校教育や過剰な医療、情報の
暴力的な洪水の威力で、生活手段は画一化され、人間本来の自
立的領域はますます細々としたものになってきています。
自民党は保守として昔からのものを守るように見えながら実は破壊
者として、金と権力を手段と目的とし、土建的な体質で日本を荒廃さ
せてきました。
工業製品を輸出するために、海外の食料を大量に買うため、国内の
農産物の価格は押さえ込まれています。
補助金や助成金で農業を守っているよう見せかけながら実は農民
の地位を貶めています。
年金の破綻、国家財政の切迫、原発の推進、これらは全て自民党
政権下で推し進められてきたことです。
そうした人たちが「美しい日本」「日本をとりもどす」などと言ってとりあ
えずの景気対策で目先の夢を語り、後世に借金や負担を押し付けてい
るのを支持する人が多いことが、私には全く理解することができま
せん。
ましてや原発の再稼動を画策し、誤魔化しの上塗りを重ね、選挙の
次の日に汚染水の漏洩を認めるなど、こんな人を馬鹿にしたことが
まかり通ることに怒りを感じます。
政治が良くなったからと言って、それで私たちが幸せになるとはかぎ
りません。
しかし、悪い政治や戦争、原発事故では確実に多数の人が不幸に
なります。
今の私には、自民党が日本の守護者ではないことを指摘することし
かできません。
かといって全面的に支持できる政党があるわけでもありません。
どの政党でも選択できる政策の幅は限られています。
しかし今回の麻生副総理の「ナチス発言」問題に示されるように、
自民党の反省なしには同じ過ちがまた繰り返されるでしょう。
けれど少なくとも私たちは、今を生きる痛み、同じ時代を生きる人たち
の痛み、これから先を生きる人たちの感じるだろう痛みから目をそらそ
うとは思いません。
この痛みを多くの人たちと共有できれば、日本の個性は保たれ、新
たな歩みを続けられるでしょう。
ここに生きる覚悟、変らずに続ける意思といった精神的な働きがなけ
れば、根を失います。
人間は常に、個としての充実だけでなく、時代を見つめる厳しい眼
も求められます。
けれど知に流されず、今のひとときを楽しむ悦びも欠かせません。
今の世の中で自分らしく生き、身のまわりに等身大の小さな世界を築
きたいと願うとき、この厳しい眼と、ここに生きる覚悟と、今を楽しむ悦
びの、同時にありながらいつも微妙に立ち位置を調節するバランス感
覚が求められるでしょう。
それは難しい道ですが、厳しい時代だから鍛えられる思想や生活形
態があります。
私たちの生活とは遠いところにある政治の世界ですが、ひとたび大
きな出来事があれば全ての人がまきこまれます。
やはり私たちの選択には重い意味があります。
今の現状に苦味を感じ、辛い境遇にいる人たちの痛みを感じ、それ
でも日々の懸命な暮らしの中に悦びを見いだしていく草の根の強さ
が私たちの力です。

蓮根の放射能数値と発酵

蓮根の放射能数値と発酵
ネット上で野菜の中で茨木産の蓮
根が最も危ないと言う指摘がある
そうです。
確かに現状ではセシウムやヨウ素
は土の粘土質に吸着していますか
ら、細かな土が流れ込む沼地や
それに近い状態の場所は危険性
が高いといえます。
これから最も危険な場所は東京湾
だろうとも言われています。
利根川や荒川から細かな土が多く
流れ込むからです。
江戸前の魚は相当汚染されている
と考えるべきでしょう。
それで再度生産者に確認してみま
した。
何度かの検査でやはり10Bq/kg
以下ということでした。
同じ地域なのにこうした差がでる
のは一つにはスポット的に数値が
出て、均一ではないということがあ
ります。
そして考えられるもう一つの理由が
発酵の力によるものです。
寺田本家などが酒のもろみを撒い
て、畑や幼稚園の園庭の放射能の
数値が下がったという報告があり
ます。
微生物が直接放射性物質を他の
ものに変えたという可能性もありま
すし、土が活性化して吸着してい
たセシウム等を放出して流出させ
たということも考えられます。
原爆の投下後、味噌を積極的に
食べることで症状を軽減させたと
いう記録もありました。
微生物の力、発酵にはまだ私たち
が知らない力があるのだろうと思
います。
とは言え、10Bq以下といっても全
くのゼロではないかもしれません。
けれどこれから寒くなりますます美
味しくなっていくこの蓮根を手放す
ことは私たちには考えられません。
今までのチェルノブイリやベラルー
シ等での長い時間をかけての検証
で10Bq以下は問題ないだろうとい
うのが晴屋の立場です。
この数値以下なら、美味しくて身体
と心を元気にしてくれる積極的な要
素のほうが勝っていると判断してい
ます。
みなさんの支持をえられ、納得して
いただければいいのですけれど。

晴屋の青い扉 その64 放射能の数値

晴屋の青い扉 その64
放射能の数値

数と言うのは不思議なもので、客観的な指標として、誰にでも共通
に物事の基準にすることができる。
考えてみるとこれは大変なことだ。
どんなに状況が違い、生きる価値が違い、持って生まれた性格が違
っても、共通の価値や基準をもつことができる。
それによって私たちは、貨幣という共通の物差しで物事の価値を計
り、他の国の出来事が自分にどれだけの影響があるか推し量ること
ができる。
データとして、映像として、私たちは世界の出来事を瞬時に知ること
ができるようになっている。
しかし反面、その数値が一人歩きして私たちを支配し、選択の幅が
狭まり、日々の暮らしをゆとりのないものにしている。
現代の文明を全て否定することはできないが、世の片隅でお金を含
めてなるべく数字に捉われない、
持って生まれた個性を伸ばす生き方はできないのか。
貧しくとも、忙しくとも、音楽を聴いて心が休まり、感性が飛翔するよ
うな時をどうしたら持ち続けられるのか。
そんな夢のようなあてどないことを考えながらこの八百屋を続けてい
る。
だから農薬や添加物の危険性を訴えて消費者にアピールすること
は極力避けてきた。
余分なものが無いというより、本当に必要なものがある、生きるのに
希求される栄養や美味しさがあるということがより重要と思っている。
私たちの同業者にも良い野菜の基準として農薬の使用の少ない物
を選んでいる人たちもいるけれど、私から見ればそれは世の流れに
乗った堕落と感じられる。
こんな私なので、放射能の数値に関してもなるべくかかわらないよう
にしてきた。
安全である、余分な物が入っていないというのはもちろん望ましいこ
とだけれど、それを求めるあまり、自分の必要なものを見つけ、より
分ける感性を失ったら、それによってかえって自分の健康を損ない、
元も子も無い。
多少の放射性物質だったら、腸内の微生物の力を借りればなんとか
なるのではないかという、人間や自然のあり方への淡い期待もある。
本当に危険なものを察知して、無意識に避ける勘の様なものが育っ
いってくれないかという希望もある。
次の世代を信じることができなければ、より良いものが育つことはない
だろう。
絶望や否定からは肯定は生まれない。
野菜を差別せず、その本質だけで自分にとっての価値を判断する手
助けが私たち八百屋の仕事だ。
けれど最近は世の中も少し落ち着き、あまり表面的には放射能の数
値も騒がれないようになってきた。
少し気軽に話せる状況になってきているので、現在の状況をお伝え
できるかと計算用紙の一部に以下の文章をのせるようにしてみた。
ほとんどの野菜の放射能測定がされており、10Bq/kg以下の不検出
となっています。晴屋では10Bq以下を取り扱いの基準にしています。
一部の生産者で測定限界20Bqの機械を使っているため、20Bq/kg
以下を保証値としています。
三陸水産・北海道しっでい等の海産物は全て測定済みで、5Bq/kg
以下の不検出です。

これによって何かが変わるということはないけれど、信用して私たちの
野菜を買い続けてくれている人たちには少し信頼に答えることにな
るかもしれない。
あくまでも参考の数値で、身体が求める美味しさが基準なのだとお
伝えしたい。

晴屋の青い扉 その62・63  巨大社会で生きる

晴屋の青い扉 その62・63
巨大社会で生きる

今回の震災は私たちに多くのことを突きつけた。
大きな自然の変動に今の社会はどう向き合えるのか。
原発と言う、不合理で巨大な危うさをはらむ存在。
それらを前に私たち個人は何ができるか。
周囲や報道での情報では、問題は当然あるとしても<避難所での節度 ある生活や、参加しているボランティアの活躍、多額の寄付金など、 一人ひとりとしては、全うに見えるし、まだ世の中も捨てたものではないと 思わせてくれる。 しかし、全体として世の中を見た時や、政治の状況を知るにつけ、もう どうしようもないかなと無力感に襲われることもある。 私にはこのミニマムとしての個人のあり方と、マキシマムとしての社会の あり方のギャップが、どうしても感覚的に埋められないでいた。 知識と欲求で世界を広げてきた人間が、作り上げたものの巨大さに 自分を見失い途惑っている。 先日、「ディスカバリー・チャンネル」という科学番組を見ていたら、古の 武器の特集をやっていた。 名前は忘れたが、その武器の登場で狩りもしやすくなったけれど、 何より集団の統率ができるようになったという。 悪いことをすれば罰が与えられるという刷り込みは、集団の結束を高め 安定をもたらすという。 しかし、それも150人位まで、古の集団はだいたいどこでもそれ位が 単位になっていたらしい。 150人というのは何か説得力を感じる。 全員が顔見知りで、名前や出自や好みも知っている。 多少の派閥はあったとしても、十分に理解できる範囲で見通しがきく。 強力な独裁は敬遠されるだろうし、個人の極端なわがままも許されな いだろう。 自律と規律がバランスすることができるほどほどの数なのだろうか。 しかしそれを越すと、それだけでは統制がきかなくなる。 我々の祖先はしきたりや風習といった文化や、法律や教育や宗教的 規範によってその統御をおこなってきた。 けれどそれも明らかに限界にきている。 少し前までは、知によって人間は生きる範囲を広げ、新しい未来を 切り開けると考えられてきた。 今では、社会の一員として役に立つ歯車(パーツ)と一つとなり、文明 を享受する消費者として「賢い」存在になることを教育されている。 その範囲での自由は保障されて、テレビで宣伝している品物や、カタ ログから好きなものを手に入れることができる。 流行や格好の良さは常に更新され続け、巨大な渦が常に私たちを巻 き込もうとする。 先ほど人の把握できる人間の数を150人と書いたけれど、それを一塊 とすると日本の人口1億3千万人なら、8500以上の集合になる。 とても認識できる量ではない。 そこでは個々人の個性などなんの意味もない。 パターン化した行動やおりこみ済みの嗜好があるだけで、私たちの 内的な必然性など考慮される余地はない。 基底になるのは生きるために働き消費する人間の最低限の生活習 慣だけだ。 それは既に歪められ、自然との繋がりを奪われて、巨大なシステムに 取り込まれている。 共通項からは、グロテスクな人間のエゴしか見えてこない。 そこでは人間の善意は通じない。 個人が志を持っても、政治家が高いスローガンをかかげても、何も変 わることはない。 世界の人口は約70億人、4700万の150人の集団ができる。 気が遠くなるほどの膨大な数だ。 毎日見知らぬ土地から新しい情報がやってくる。 栄光や悲惨、高揚や挫折が私たちの目の前を通り過ぎる。 アフリカのこどもたちの惨状に心を痛め、多少の寄付をしたとしても、 何もケアしたことにはならない。 そのお金で一時の食事や医薬品や教科書が配られたとしても、結局 は商品経済に依存する消費者を増やし、巨大なシステムを助長し 、地域との絆は失われていく。 スポーツ選手の活躍に心をときめかせ、その収入に驚きと憧れを感じ ることもある。 夢を持ち続ければ実現すると、明るい現実が提示されている。 それは確かに事実であるかもしれない。 しかし真実であるとは限らない。 同じ時代を生き、苦境を乗り越えるカタルシスを感じさせてくれたとし ても、私たちには無関係の現実だ。 私たちの知覚で認識できる150人の範囲の出来事と、それ以外の情 報を区別して扱う必要がある。 その作業を怠ると、一瞬で自分の居場所や何を求めているのかを見 失ってしまう。 知識によって人は物を精神的に所有できるが、それと同時にその「物」 に縛られることになる。 「知」は現実を離れて飛び立とうとし、しばしば足元がお留守になる。 そういう意味では人間と言う動物は、自然の営みを忘れて暴走する、生 まれながらに呪われた性質を持つ生き物であるかもしれない。 どうにか耐えられる日常を脱し、飛び立とうと「知」を求めたのだろう。 しかし今、社会が巨大化し、本能が置き去りにされていく世の流れにあ っては、「知」の暴走は際限なく広まっていく。 私たちは「正しい知」をちゃんとした場所につなぎ止め、地に足をつけ た生活を取り戻せるのだろうか。 そもそも「正しい知」などというものがありえるのだろうか。 私には「知」に頼っているうちは永遠に安らぎはえられないのではな いかと感じる。 人間を人間たらしめている「知」だが、絶対的なものではなく、むしろ 必要悪として限定する生活習慣が求められていると思う。 自動車や電気と同じに、便利だけれどなるべく使わない方が、私たち の生活の内実は豊かなものになる。 とりあえずの便利さや効率よりも、手間隙かけても自分の生活を自分 で形作ろうという人は増えている。 個人主義にどっぷりと漬かっている私たちが、完全に自然や共同体に 溶け込んで生きられはしないだろう。 それらの助けなしには心安らぐ生き方ができないのはもちろんだけれど、 自分が何者であるかを追及する現実を私たちは歩み始めている。 後戻りはできない。 本当に大切なものはそう多くはないはずだ。 他者と出会い、余分な思い込みを削り取り、洗い流し、譲れない最低 限のものを見つけ、育て、守ることをどう達成するか。 人は常に進歩するものだと言う、近代の人間主義のカルマを脱したと しても、自分を特別な存在であると感じる自意識のわなから逃れるの は難しい。 多くの人にとっては、子どもを育てることがその有効な手段になりえる。 思い通りにならない時、成長をじっと待つ時、期待を上回る成果に喜 びを感じる時、私たちは人間の存在の無垢な輝きと儚さと重さに向き 合い、自分に何が必要か思い知らされることになる。 そして、子どもは成長し、私たちと同じように悩み、葛藤する。 手を貸すことはできない。 そして、年老い始めた私たちも、一個の動物として次の世代を残すと いう仕事の他に、自分には何が残されているか問われることになる。 どう生き、どう死んでいくか。 このような時に、世界の圧倒的多数の人々と自分を比べても何の答え も返りはしない。 精神の永遠や魂の実存、神や宇宙のエネルギーなどを感じ、信じられ るかが問われるだろう。 それらはもしかしたら同じものの見方を変えただけなのかもしれない。 選択するのは私たちなのだから、その答えは自分の中にしかない。 何かを懸命に「つくる」と言う創造的行為以外の、それを見つける手段 を私は知らない。 つくることは何より、楽しい。 誰にも邪魔されず、世の束縛を受けずに自分の世界に入り、それを 展開することができる。 もちろん障害はある。 それによって、自分の世界での位置を確認し、他者との関係も見え てくる。 この材料なら、こうしたものがつくれるだろうが、違うものなら結果はこう なって、価格はこう変わる。 品質や素材感、供給された場所や時には作った人のことまでも感じ、 結果の作品の成果や他人が見てどう思うかまで想像し、形なき物に 形を与えていくのは、極めて人間的に高度な作業で、達成感と充実 感がある。 自分の可能性を試し、限界を思い知らされることも多々あるだろう。 失敗や後悔も数限りなくあり、恥をかくこともあるに違いない。 しかし、その全てが「私」なのだ。 成功だけが全てではない。 大きな会社の一部で製造にかかわったからといって、つくっていること にはなりえない。 最初の発想から、最後の結果までをやりきる喜びと覚悟と自信があっ てこそつくることに意味が生まれる。 私たちがお付き合いしているお百姓さんたちも、その充実があるから 続けている。 「場」と「時」を彼らは自分のものとしている。 自分なりに考え、工夫し、その結果がよければ、誰にも文句は言われ ない。 失敗したって、来年はこうしようかとまた次が想像できる。 食事をつくるのは消費だけれど、そこに創意や伝えようと言う気持があ れば、つくることになりえる。 同じこともやらなければならないこととするか、その中に工夫や創意 を盛り込もうとするかで、長い時間の経過の中では、結果は大きく変 わってくるだろう。 物や作品だけでなく、人間関係もあるいは自分の身体や精神も、「つ くる」対象になりえる。 意思と創意を持ち続ければ、人間には大きな可能性がある。 それはマスコミに取り上げられる社会的な成功とは違うものかもしれな い。 私たちがやっている晴屋は八百屋であり、一小売業者だ。 流通や生産者に注文したものを、消費者に売っている。 そこには何かをつくるという行為は含まれていない。 しかし、この晴屋を始めた時の私の思いは、自然の息吹や生産者の心 意気を届けたい、都市でそれができなければ農村での本当の意味の 自然の維持や再生はできない、というものだった。 そこでは直接物をつくるという行為はないけれど、売ると言う行為によ ってよりよい物をつくる人たちを支援し、都市で暮らす人たちのつくる 喜びをかきたてるような物を届けると言う意味合いがある。 それまでになかった物の流れや情報の流れを確立し、創意や工夫の 様子を相互に橋渡ししている。 けれど本来なら、流通や小売業など無くてもいいかもしれない。 自給自足したり、消費者と生産者が直接やりとりする方がよりよいか もしれない。 ガソリンや電気料金、人件費などの経費も発生する。 しかし、現実に都市と田舎が結びつくのは難しい。 距離の問題だけでなく、生活感覚や言葉の表現の違いもある。 晴屋をある種の必要悪であると認め、痛みを感じる視点を持つことに よって、私たちは辛うじてつくる側に加担できていると感じている。 それには規模の問題もある。 前に150人が人間が把握できる人数の限界かもしれないと書いたけ れど、実際私個人が関わりを持っている人数はそれくらいだろう。 その大きさを超えれば、私も晴屋もつくる側には立てず、能率のため に流されていくだろう。 今の世ではこうした自己規制の下でしか、自分の位置や創意の継続 を保つことができない。 何をつくるかは、何かを諦めることと同じだし、自分の人生を選択して いくことに等しい。 晴屋はこれからも、つくる側に立ち続けたいと願う。 世の片隅でそれを続けることが、天才ではない私たちが、巨大なも のに巻き込まれずに自分らしく生き残れる唯一の道であるから。 それは晴屋だけでなく、多くの人たちにも通じることだと思う。 生産者や消費者と共につくり、共に楽しむことができる間は、晴屋の 存在意義と寿命はあるのだろう。

晴屋の青い扉 その61 哲学は未来をどう語れるか 復興と脱原発から生命・自然・労働を考える 下

晴屋の青い扉 その61
哲学は未来をどう語れるか
復興と脱原発から
生命・自然・労働を考える 下

哲学熟「の・ようなもの」の3人委員
会の一人、哲学者の内山節さんの
講演会からの抜粋の後半です。

今回の地震、津波、原発事故の経験の中で、考えなくてはならないこ
とに情報の問題があります。
歴史上初めて津波の全貌が映像に残った。
その映像を私たちは何回か見ることになりましたが、映像が持つ情報
量はべらぼうに多い。
ところが大量の情報を得た人々はどうなったかというと、逆になんとな
く現実離れした映像に見え、映画の一場面を見ているような気になって
しまった。
つまり、情報量が多いことが人間の判断能力を停止させることが今回の
震災でわかってきた。
身体でつかんでいる情報は情報量が多くてもすぐに処理できるのです。
しかし、頭に入ってくる情報は、情報量が多いと逆に判断ができない。
近代的な世界は、知性で処理する情報を増やしていって、それがより
よき社会をつくるといってきたが、ここには何か錯覚があった。身体や
生命が処理できる情報をとおして情報を交換できる社会を考えていかな
いと、情報の問題が支配の問題にすり変わってしまう。
私たちは復興と言う言葉をすでに語り始めていますが、高台に町をつ
くるなどと言うものはグランドデザインではないと私は思っています。
グランドデザインとは、そこに人々が暮らし存在してる意味がわかる、もっ
と簡単に言えば、ここで暮らしてよかったと思える町をつくること。たと
えばそこで亡くなるときに、ここに暮らしてよかったと思える町でもいいし、
海を見ていると何時間でもそこにいたくなるような町でもいい。人々がい
ろいろな家に寄ってお茶を飲める町、子どもたちが道で遊んでいるような
町、どんなことでもいい。そういうものを「文学的、思想的、文化的グラ
ンドデザイン」と言っている。
つまり、とてもローカルなものとしてのグランドデザインです。それは作ろ
うと思えば一週間もあればできると思う。そこに住んでいた人たちが集
って語り合えば簡単にできる。
国や県に復興の主体はない。東京なんかでグランドデザインをつくるか
らどうしようもないものになってしまう。
それぞれの地域で、自分たちが生きて存在していくことを、了解し合う
世界を作ることが復興であって、けっして最初に住宅計画や産業計画が
あるのではない。
自分だけでは十分に生きたかどうかを考えたときには判断できないけ
れど、他者からの働きかけ、人々からだけではなくて、自然からの働き
かけがあってはじめて、自分が役目を果たしてきたことを了解できるの
です。
ところが近代になると、働きかけられながら生きていることを意識しなくな
って、働きかけるほうにシフトした。
これが「近代の主体性」で、こちら側からどう働きかけるか、という生き方
に変わってきた。働きかける側になってしまった瞬間に、人間たちは存
在が不安定になってしまった。
私たちはこれから、復興と日本の社会をつくり直すことを同時にすすめ
なくてはいけない。
明確につかむまでにはもうちょっと時間がかかるでしょうが、ともかく、
つかまなくてはいけない。そうでないと、今回の震災で亡くなった人た
ちを直視することができない。また、そう思うからこそ、原発はまずい。
原発は人間の災害だけでなく、自然への災害でもあったからです。
私は、人間の善意が善意として通用するのがいい社会なのだと思っ
ています。ところが原発に関しては、人間の善意が善意として通用しな
い。
原発については風評被害と言うのは存在しないと私は思っています。
風評被害と言ってあげたいという人たちの善意はわかるが、それがまっ
たく通用しない。人間的な思いとかつながりとか、人間と自然のつなが
りをこれからどうしようとか、そういったいっさいのことが崩壊してしまう。
それが原発の本質です。安全かどうかの議論以前に、そもそもこういう
世界をつくってはいけないと私は思う。
これらのことを考えながら、この震災からの教訓をつかみ直し、私たちの
社会をどう変えたらいいのか、さまざまな議論を重ねていかなくてはな
らないと思います。
(農文協「現代農業」別冊・「季刊地域」2012冬号より抜粋しました。)

人間に共有できる価値があると信じている内山節さんの明快で力強い
表現で、私たちの未来への道が語られています。
私も八百屋として、人の親として、同じ道を歩みたいと願います。
内山さんは、「場」と「時」を取り戻すことによって、自然と人
間の共同体の再構築を目論んでいます。
晴屋の場合は「身体がつかんでいる情報」というのを、「作る楽しさを育
てる」という言葉に置き換えています。
いくぶん主体的な動きに重きを置いた表現ですが、それには立場の
違いのためもあるようです。
私たちは、みな違う身体と感性を持っています。
自然に生きる生まれながらの力を持ち、さまざまなものに対応できる本能を
持っています。
それを生かし、発展させるために生まれてきたともいえます。
違うからこそ興味も湧き、伝えてみたいという情熱も生まれます。
作ることによって社会を組み立てれば、都市でも創造的な関係は築け、
私たちの心や身体の自然や自律は保てるのではないか、というのが
晴屋の立場です。
与えられた労働ではなく、自ら選んでの創造には、規制や障害も多く
あると思いますが、それを克服することで学び、自分の世界を再構築
する機会になります。
日本の伝統の中にある所作や間の感覚の素晴らしさを認め、保ちな
がらも、新しい文化の創設が求められていると思うのです。
半面、個別性を前提にしている以上、相手によって話す内容や方向
も変わり、伝えるのを最初から諦める場合もあります。
しかし、多くの人たち、ある意味で世の中全体に対して語られている
内山さんの言葉に、驚きと爽快感を感じました。
違いを感じながらも、心惹かれるものが多くありました。
信頼できる人が世の中にいると思えるのは、とてもうれしいことです。

晴屋の青い扉 その60 哲学は未来をどう語れるか 復興と脱原発から生命・自然・労働を考える 内山節さんの講演より 上

晴屋の青い扉 その60
哲学は未来をどう語れるか
復興と脱原発から
生命・自然・労働を考える 上
哲学熟「の・ようなもの」の3人委員
会の一人、哲学者の内山節さんの
講演会からの抜粋の前半です。
立教大学院教授で、「怯えの時代」
「日本人はなぜキツネにだまされな
くなったか」など著書も多数あります。

群馬県上野村と東京を往復して暮
らしているそうです。

哲学とは、現実の問題から始って、現実の問題に出て行くという学問
です。
今回の震災に対しても、この現実をどう見るのかと同時に、そこからどう
出ていけばいいのかということが哲学をやっている人間に与えられ
た課題だという気がします。
今回の大震災は、「自然の災禍」と「文明の災禍」という、本来次元の
異なる2つの問題が同時進行で起きてしまったことに特徴があります。
「文明の災禍」とは当然、原発事故のことを指しています。「自然の災
禍」である地震や津波については、日本はこれまでもくり返し経験して
きました。しかし、未経験の原発事故はまだ終わっていないし、終わり
とは何を指すのかすらもかっていない。
古代から中世、あるいは江戸時代でも、危機とは何らかの出来事によ
って、その地域の生活システム、労働システムが崩壊することで発生し
たと考えられてきました。
江戸時代までの生活・労働システムは、人々による手作りの生活・労働
システムでしたから、手作りで再建することが可能でした。
しかし、今日の場合は、きわめて巨大で完璧なシステムになっていて、
人々の手作りではどうにもならないものがある。とくに原発がそうですが
われわれが行って直すことも、手伝うこともできない。
さらに、ひとつのシステムが崩壊した時に、連動して他のシステムも崩
壊していくという現実もあります。
電力システムが崩壊すれば、交通システムも情報通信システムも、他
のいろいろなシステムも崩壊していく。
しかも、どのシステムも、私たちが自分で修復することはできません。
今回の震災に対して、日本政府の対応が鈍い、問題があるという人は
たくさんいます。しかし、僕自身は大筋あんなものだろうと思っている。
なぜなら、政府も巨大システムのひとつであって、すべてのシステムと
相互依存的な関係にある。
とくに原発が絡んでくると、東京電力内部の意思決定システムや情報
システムに混乱が生じ、東電と経済産業省の関係も機能していない時
に、政府だけがうまく機能するはずがない。
むしろ、私たちはこのような社会でよいのかということを問題にしなくて
はならない。
「政府がしっかりしていたら」という言い方をする人は、政府さえしっか
りしていればすべて解決できると思っている。その幻想の方が問題だと
思います。むしろ「政府なんてだれがやったってあんなもの」という気持
で、政府に依存しないかたちでみんなで再構築していかなければ、
同じ問題をくり返してしまう。
それが今回の震災の教訓だと思います。
私はもちろん原発が安全なものだとは思っていません。ただ、あまり安
全か危険かの論点で原発を議論したくないといのが本音です。
以前から「原発は安全に運転されていても、出ている放射能は無視
できない」という意見もあります。
そこには本当の対立点はない。
ですから、危険と言うのはどういう概念なのかをきちんとみておく必要
がある。
私たちは高いところは危険であると人類の誕生以来経験してきたから、
私たちの身体が記憶していると考えていい。火に対しても同じで、火は
いかに有効かとということも知っているし、危ないものであるということも
知っている。人間は火と長くつきあってきたので、有効性と危険性の両
方を身体が知っている。このように、自分自身で判断可能かどうかが、
「安全」の基準です。
食品添加物が安全か危険かは、食べても判断できないし、匂いでも判
断できない。そのこと自体がもう危険であると考えたい。
私のように賞味期限をまったく考慮しないという人間は、ひたすら自分
の判断力を信じている。だいたい腐っていれば見ればわかる。つぎには
触ってみてダメだとわかる。匂いでわかる。微妙だなと感じたら、ちょっ
となめてみる。噛んでみてダメだったら吐き出してうがいをすればいい。
それくらいの抵抗力はありますから。
最近は賞味期限を信じる人が多くなったのでずいぶん怪しくなりました
が、人類はずっと腐敗とつき合ってきたので、腐敗を見分ける能力も備
わっています。しかし、食品添加物の危険は感じることができません。
われわれの五感では判断できないのです。
放射性物質についても同じで、一番の問題は人間の五感で判断で
きないところにあります。ただ天然の放射能については、人類は長くつ
きあってきたので、DNAを壊されたとしても、それを修復する能力ももっ
ている。ところが、修復する能力を超えた放射線に被爆した場合、自
分の身体では判断ができない。いろいろな情報をもとに大丈夫かどう
かを疑い続けるしかない。そこにこそ、原子力の危険性がある。
今回の原発事故では、「想定外」という言葉が頻繁に使われて、かなり
批判を浴びました。
ここで問題なのは、想定をもとにシステム設計をされたものは、巨大に
なればなるほど、素人が介入できない世界が拡大していくということ
です。
そこに素人のわからない世界、素人の介入ができない世界が出来上
がっていく。
企業も同じで、小さな企業ならみんなが仕組みを知っていますが、巨大
企業になると、そこに専門家集団が発生していく。
専門家というのは「専門性のあるすぐれた人」ではまったくなく、自分の
専門領域からしかものを考えられない人のことなのだと、私はつくづく
思います。このことはすべての専門家がきちんと理解しなくてはいけま
せん。専門家にゆだねるということは、その領域だけにやられてしまう
ということ。
今の社会は、いろいろな専門家の暴走を許している社会ともいえます。
他の介入を許さない世界を生み出している。
原発に関しても、直接対応できない私たちにとってはイメージにすぎな
い。
現代とは、イメージ化することによって、イメージのなかに人々を巻き込
み、イメージによって人を支配していくという社会が形成されています。
洋服を買う場合でも、その洋服の機能というより、イメージで選択してい
る。イメージ化された消費市場が、そこらじゅうに広がっていて、その中
のどれに手を伸ばすかという選択にすぎない。そんな時代になっている
という気がします。
ですから、イメージ化できなくなってしまうと、私たちは判断停止になる。
私たちは専門家たちによって動かされ、その外部で、イメージ化され
た世界の中で支配されていく。この構造がもたらした現実を見据えてい
かなければと思います。
(農文協「現代農業」別冊・「季刊地域」2011.秋号より抜粋しました。)

晴屋の青い扉 その59  活性酸素と放射能と現代の不安

晴屋の青い扉 その59
活性酸素と放射能と現代の不安

活性酸素といわれているものの中の幾つかが、癌や老化の原因だと
いわれている。
H2O2、HO2、O2-などは極めて反応が早く、他の物質と化合する。
いわゆる酸化だ。
それによって遺伝子や細胞組織が壊れてしまう。
添加物などの化学物質や精神的ストレスが原因で活性酸素が増える
という。
しかし意外と知られていないのが放射能の働きだ。
放射線が直接に遺伝子を壊すのではなく、活性酸素を発生させること
によって、悪い影響を及ぼすという。
最近は有機農業の野菜と放射能のどちらをとるかという図式で語られる
ことが多いけれど、実際には農薬プラス放射能ということもありえる。
人間にはある程度の遺伝子の修復能力があるけれど、現代に生きる
私たちは常にその場のバランスや知識との追いかけっこに付き合わざ
るをえない。
そして精神的ストレスも加わる。
放射能の心配をする人が増えるほどストレスによってかえって癌が増
えるのではないかと、私などは心配になってしまう。
慎重であることが悪いはずはない。
人間は知識によって自分の世界をひろげてきた。
それは両刃の刃で、知ることによって不安もかかえることになる。
自然災害、他からの侵略、愛するものの喪失、そうしたものへの恐怖
心が絶えずつきまとっていた。
それらにとらわれやすい体質、知識に縛られやすい性質を産まれな
がらに多く持つ人もいる。
生きるということは何かに集中することだから、それも一つの生き方に
違いないし、不安が生きる原動力にもなりえるだろう。
けれど人間の持つ他の能力、例えば過去を忘れて新しいことに取りく
む積極性を上回る不安や恐怖心は、物の実態や社会の現実には
沿っているかもしれないが、生きる本質を見失わせる。
生きていて何の異常も感じないし、疲れもしないということはありえない。
けれど行き過ぎると、自分の中の自然な経過を見つめ明日を確信する
ことができなくなってしまう。
人類の歴史の中で悲惨や恐怖は限りなくあり、多くの命が失われてき
た。
我々だけが災いから遠くにいることはできない。
私たちは今の世に生きているし、当面生きてもいけるだろう。
こどもたちの未来もばら色ではないが、個性を生かして生きる余地は
残されている。
次の世代の持って生まれたものや、生命力や創意を信じることしかでき
ない。
いやむしろ、信じることによってしかそれは育たないだろう。
庇って、守ることによってかえって発育不全になることは多くある。
難しい時代を生きて、日々試されている私たちだが、道は自ら選び、
あるいは切り拓いていかなければならない。
物質主義や権威主義を超えたところで、何に生きるよりどころを見いだ
すか。
巨大なものに頼らずまた隷属もせず個としてあるという意味でそれは正
に、原発に反対するのと同じところに根ざしている。
恐怖や不安に押しつぶされていたら、原発や放射能に負け屈服する
ことになる。
一つの不安が解消しても次の不安が私たちを襲い、新たな連鎖へとり
こもうとするだろう。
ある状況が揃えば一定の反応をする大衆の一人としてシステムに組み
込まれている。
否定から肯定は生まれない。
不要だからいらないという、生活者としての、一つの命としての発信で
しか、利害を超え多くの人たちと連帯し大きく世を動かすことはできな
いだろう。
それは今私たち、現代に生きる人間に与えられた課題に違いない。

チェルノブイリに学ぶ放射能対策

チェルノブイリに学ぶ放射能対策
チェルノブイリ事故から25年。
隣のベラルーシにもセシウムを中心とした大量の放射性物質が降り
注ぎました。
そのためベラルーシでは日本をはるかに上回る健康管理が必要と
されおこなわれています。
NHKが現地の研究所で行なった取材と、ベラルーシで財団を作り
放射能の害を減らそうと努力している人の報告をまとめて、私たち
の参考にしてみたいと思います。
まずベラルーシでは、放射能の測定が誰でもできる体制が整ってい
ます。
各学校や保健所には必ず測定器があり、食べ物や人体に蓄積した
放射能の量を知ることができます。
時間は10分ほど、料金も100円位で計ってくれます。
これはぜひ日本でも見習わなければなりません。
必要な情報を自分の納得いく形で手に入れられる状況なしには私た
ちは本当には安心できません。
食べ物を持っていくとそのまま鉛の容器に入れ、10分で結果が出て
安全なら証明書を発行してくれます。
刻んだり、ぎゅうぎゅうに詰め込んだりはしません。
ベータ線やガンマ線は浸透力が強いため、刻む意味がないといい
ます。
特に空気が混じって放射能値が変わるようだったら、測定をやめて
すぐに逃げ出さなければならないといいます。
そんな高放射線量状況は考えられないそうです。
時間も10分は必要だけれど、それ以上は意味がないそうです。
厳密な値より、わずかな違いはあっても、多くのものを手軽に計っても
らえることのほうが意味が大きいでしょう。
計って安全なものは、持って帰って食べることもできます。
長年の経験が生んだ合理主義で、私たちも見習わなければなりませ
ん。
そして問題なのは基準です。
ベラルーシでは内部被爆・外部被爆合わせて年間1ミリシーベルトを超え
ないというのが基準になっています。
もちろんそれ以下でも影響がでる人はいるますが、低放射線量によ
る環境不適応症候群は、添加物や化学物質やストレスなどのその他の
要素との複合的な問題と考えるほうが妥当でしょう。
それらは放射能よりはずっと解決が容易です。
日本は現在セシウムとストロンチウムのみで年間5ミリシーベルトを超え
ないという基準になっています。
それで日本では食品は500ベクレル以下、飲用水・牛乳は200ベクレル
以下というのが基準になっています。
これはあまりに酷い数字だと研究所のネステレンコ所長は指摘しま
す。
ベラルーシの基準
乳児用食品  37ベクレル
飲料水     10ベクレル
牛乳      100ベクレル
じゃが芋    80ベクレル
牛肉      500ベクレル
豚・鶏肉    200ベクレル
お茶     3700ベクレル
日本よりかなり厳しい基準になっていますが、長年の甲状腺などの身
体の測定や追跡調査でこの値なら大多数の人に問題ないだろうとい
うのがこの数値です。
じゃが芋が厳しいのは主食で大量に食べるためで、日本なら米にあ
たるでしょうか。
お茶の基準がゆるいのは、溶出が少なく薄めて飲むからだそうです。
この基準なら静岡や小田原のお茶は全部大丈夫になります。
生活状況に合わせて細かく分類され、年間1ミリシーベルトを超え
ないよう管理されています。
晴屋の簡易測定値100ベクレル以下(実質50ベクレルを超えたものはほと
んどない)と言う基準は妥当な数値だと再認識しました。
ベラルーシでは食品に含まれるセシウムを減らすための知識も一
般的になっています。
セシウムは水溶性のため肉や魚を塩と酢を入れた水に4時間漬けて
おくと、30~40%の放射性物質が取り除かれるということです。
またセシウムの吸収を防ぐためにカリウムを含んだ食品を摂取する
といいそうです。
チョコレートやココア、バナナ、皮つきのじゃが芋がいいそうです。
また、セシウムを吸着して体外にだしてくれる物としてペクチンが有
効だとこの研究所では言っています。
リンゴ等の果物、野菜ジュースが特に効果的ということです。
みかんの内袋にもペクチンが多く含まれています。
国家予算の20%がチェルノブイリ対策に当てられているというベラ
ルーシに学ぶことは多いと思います。
日本では東電や政府の隠蔽体質のため、不安は解消できません。
ベラルーシに習って早急に放射能の測定ができる体制を作るべきで
しょう。
某大手宅配では、関西の野菜のセットを作って売り上げを伸ばして
いるということです。
不安から欲しがる消費者がいることは理解できますが、流通の一端
にいる人間としては、野菜や生産者に対する冒涜としか映りません。
確実に汚染されている地域で日々暮らし、頑張っている人がいる中、
ただ売り上げが増えればそれでいいのかと憤りを感じます。
500ベクレル/kgなどという基準は論外ですが、ここまでは許容し、こ
こからはダメという基準を明確にして、共に育ち生きていく感覚なしに
は、この状況は乗り越えられないと思います。
また別のネット販売では放射能の測定をうたっていましたが、私の
知る範囲ではほとんど意味がありません。
晴屋では一品目に2時間近い時間をかけて測定しますが、それは鉛
の10センチ厚の箱が用意できないためです。
短時間では放射線の種類や核種がわかっても量の測定は不可能に
思えます。
こんなことたちがまかり通ったりするのも、ちゃんとした情報が開示さ
れず、手軽に放射能の測定ができないためです。
一日も早い国の体制作りが必要ですし、不安によって本質を見失わ
ない消費者の冷静で合理的な判断が望まれます。

放射能への対処

毎日多くの品物が届けられる晴屋ですが、その中には茨城産や千葉
産のものも含まれてます。
原発事故の被災地・福島にこちらより近い分、汚染度は東京より多い
かもしれません。
しかし、30年以上付き合っている生産者もいて一概に切り捨てるこ
とはできません。
けれど安全を求めてくるお客さんたちへの責任ももちろんあります。
原発事故以来、ずっと頭の中にこの揺れる気持ちが晴れることはあり
ませんでした。
それでも少しづつ落ち着きを取り戻しはじめ、個別に対応してきた生産者
たちの状況もつかめてきました。
今回まとめてお知らせして、みなさんの選択の基準にしてもらおうと
思います。
まず高橋乳業の牛乳は那須に牧場があります。
飼料の藁はサイレージという昨年収穫したものを発酵させ貯蔵した
もので、今年のものは一切与えていません。
今後は国産の藁は使わない方針だそうです。
毎週行っている放射能測定では不検出でまったく問題がありません。
群馬の野菜くらぶも毎週検査をしています。
こちらも全て不検出です。
同じ群馬のあずま産直ネットでは3月25日に検査した結果がきてい
ます。
キャベツは不検出ですが、その他の野菜は20~30Bq/kgという数字が
出ています。
ご存知の通り暫定規制値は500Bq/kgなのでかなり低い値といえます
がやはりゼロではないこともあります。
ただしそれ以降の時間の経過があり、数値はかなり低くなっているで
しょう。
放射能の検査には通常とてもお金がかかるのです。
茨城でルッコラ等のハーブ類を生産しているレインボーフューチャー
では全て不検出でした。
ここは全てハウスで栽培しています。
千葉で多くの野菜を生産している和郷園のものは小麦以外は不検出
でした。
小麦は晴屋には来ていませんが、数値は104Bq/kgだそうです。
栃木の矢板では晴屋のお米が作られています。
米の収穫はまだですが、麦の収穫は終わりました。
数値は20~30Bq/kgだそうです。
米は多分これより少なくなるだろうと思われ、検出限界以下の不検出
になると予想しています。
新潟の魚沼に牧場のあるアルファーでは、昨年の稲藁しか与えてい
ないので、牛肉などからは不検出となってます。
また四国の山地酪農の牛たちは、基本的には山の草しか食べていな
いので、検査はしていないけれど問題はないでしょう。
以下にまとめてみます。

なお不検出というのは全て測定限界以下という意味でまったくのゼロ
ではないかもしれません。
那須 牛乳 不検出
群馬 野菜くらぶ(レタス・小松菜・法蓮草・トマト・キャベツ) 不検出(ALOKA
社製GMサーベイメーターTGS-186にて測定)
群馬 あずま産直ネット(キャベツ)不検出  長ネギ22Bq/kg  ミニトマト26
Bq/kg  きゅうり30Bq/kg(同位体研究所)
茨城 レインボーフューチャー(ルッコラ・ベビーリーフ・ミズナ・小松菜他) 不検出
(日立協和分析センター)
千葉 和郷園(法蓮草・春菊・パセリ・他)不検出(千葉県農林水産部安全農業推
進課)
新潟 アルファー(牛肉) 不検出(新潟環境衛生中央研究所)
今のところ集ってくる数字に問題がありそうな感じはしません。
けれどその地区では調べていても、生産している畑でとれたものを直接
は調べていないところもあり、この数字だけではわからないところもあ
ります。
それで晴屋でも独自に簡易検査をすることにしました。
CPMやCPSといった単位時間あたりのベータ線とガンマ線の放射
線量をある程度正確に計れる比較的高度な機械があります。
感度のいい機械なので環境中の自然放射能が刻々と変化していく
のがわかります。
CPMというのは1分間に通過した放射線の本数を表しているのです
が、11から28までの間で大きな変化があります。
鉛の箱を作って、環境中のアルファ線とベータ線をカットして精度を上
げています。
ガンマ線のカットには10cm厚の鉛が必要でそこまではできません。
一品目に約一時間かかります。
環境中の放射線量を計測し、次に食品の放射線量を計測してから環
境の量をひけば、食品が持つ放射能の量がわかります。
その数をもとに近似値的にBqの値を求めることができます。
簡易検査だからもちろん完璧ではりませんが、もし40という数字が出た
ら最大で60、最小で20という範囲での値になるという説明を受けていま
す。
絶対値との誤差はありますが、相対的に比べるのには実用性がありま
す。
国の暫定基準値は500Bq/kgですが、晴屋では100Bq/kgという数字
を基準にしてみようと思います。
誤差の最大では150Bq/kgということもありえます。
この数字だからまったく問題ないと言うことはできないかもしれません。
けれど、他の国の基準をみても現状では妥当な値といえると思います。
この基準を作り野菜を売ることで、私たちは茨城をはじめとする生産
者への少しでも支援ができるかもしれないと期待しています。
それを判断されるのは消費者のみなさんですが、私たち晴屋としても
曖昧な表現でなく野菜をおすすめすることができます。
ただし数値の公表はしないつもりです。
相対値としては信頼できますが絶対値ではないので、数字が一人歩き
すると生産者に迷惑がかかる場合もあります。
晴屋のものだけに限り、晴屋の責任においての行為になります。
機械の貸し出しや測定の依頼もお断りしようと思っています。
放射能の危険に心を奪われ、ものの本質を見失う風潮を加担し助長
したくはないのです。
晴屋の店頭にあるものは全部が簡易測定値100Bq/kg(最大誤差で
150Bq/kg)以下という保証ができる ことになります。
放射能はもちろん身体に害を与えます。
しかし有害な化学物質といっしょになる時、相乗効果で被害は増えま
す。
普通は被害の出ないはずの低放射線量でも、だるさや目まいなどの
環境不適応症候群という症状がでるのはそのためでしょう。
また、多少の被爆でも癌になる人の割合が増えるだけで全員がなるわ
けではないのも、遺伝的要素だけでなく、食生活や環境の影響が多
くある証拠です。
私がお世話になっている整体の指導者は、放射能の影響は肝臓で
確認するといっています。
CTやレントゲンの撮影の後はすぐわかるといいますが、今のところ指
導室がある国立市周辺では福島の事故の影響が出ている人はいない
ということです。
ちなみに整体では肝臓と共に盲腸を放射能の排泄の急所として、必
要な時には手入れします。
整体法を創設した野口晴哉が広島に通って確認し、技術として使って
いたということです。
放射能には気をつけた方がいいけれど、恐れていてはかえって自分
の自立性が損なわれ、影響を受けやすくなるでしょう。
数字はあくまで数字です。
それを判断する人の気持ち、受けとりかたでどうとでもなります。
今の天候も人を疲労させますし、普段以上に身体のケアは必要です。
楽しんで、心配の少ない美味しいものを食べること以上の、放射能へ
の対策と癌の予防に有効なものはないでしょう。
放射能のことを調べようと最近はインターネットでいろいろなサイトを
覗いているけれど、「体でなく、頭が放射能に犯されている」というブ
ラックな書き込みがあって思わず苦笑したりします。
癌は精神的なストレスや、感情の欝滞が大きな原因になります。
私たちは食べ物の心配という理性的防御ができるだけでなく、いつで
もゆったりとした気持ちを持つ強さも求められています。

晴屋の青い扉 その58  政治への期待

少し前に「民主主義」への批判めいたものを書いたけれど、私が民主
主義を否定しているかというと、そんなことはない。
むしろこの中でしか生きられないだろうと自覚している。
個人主義者で、一人で黙々と勝手に仕事をさせていれば人一倍頑張
るけれど、人と絡んだり、指示される中で個性を発揮するのは得意で
はない。
リビアや北朝鮮などの独裁国家では不可能だし、中国、ロシアでもま
ず無理だろう。
共産主義国家で一番うまくいっているようにみえる、有機農業が盛ん
で医療費や教育費が無料のキューバでさえ、反社会分子は即刑務所
入りで、厳しい弾圧があるという。
虚弱な私などすぐに潰される。
一部の天才と圧倒的多数のお馬鹿の国、アメリカは好きではない。
もちろんJAZZは素晴らしいが。
不潔は耐えられるけれど、始終人が話しかけてくるインドの豊穣と猥
雑さには耐えられそうもない。
中東のイスラム圏の男社会も肌にあわないだろう。
東南アジアの熱気には魅力を感じるが、自分がそうはなれない。
ヨーロッパは血塗られた歴史が素晴らしい芸術を生んだが、内実は
厳しい階級社会であり、下層の私などとても我慢できそうにない。
それでも東欧だけは魅力を感じる。
食べ物やお酒もおいしそうだし、成熟した昔からの豊かさが残っている
ような気がするが、だからといって確かめる気力はない。
こんな身勝手な私なのでここ以外ではとても生きていけないように思
う。
そういう意味では私も見せかけの民主主義の中で安穏と生きる一人
であるに違いない。
とても否定出来るような者ではない。
民主主義は見せかけと言っても、多数の利益に奉仕しているという
一面は持っている。
しかしその圧倒的多数が飼いならされ、安定と継続という現状維持を
目的と手段にしてしまっている。
急進や革新を望まない。
これは私のようにいつも前のめりで何かを作り続け、止まれば倒れてし
まう人間にとっては面白くない。
私だけでもこんなに偏屈なのに、これだけの数の雑多な人間を全員満
足させるのは実際問題に不可能だ。
そして世界には様々な支配原理があって、手かせ足かせになっている。
穀物メジャーという食品の巨大商社、UPやAPIという情報を発信し操作
する巨大通信社、石油の利権を握る商社、軍事力はダントツだが経済
は破綻しそれでもプライドは高いアメリカなど、他にも多くの確固とした
巨大で、堅牢なシステムが出来上がっている。
それが世界の安定に寄与している部分もあるけれど、一国を代表する
政治家でもそれを動かし変えることは不可能だ。
政治家の仕事は国民を理想に導くことでなく、多くの利権の交通整理
を問題なくこなすことになっている。
だから、誰がやっても大きな破綻は起きないが、誰がやっても素晴らし
い成果をあげることは難しい。
成功の見込みの無いゲームに多くのエネルギーが消費されている。
政党を代表する党首の人気で選挙の結果が決まるのはどこの国でも
同じだけれど、何がしかの目先のスローガンの差だけで、しばらくす
ればすぐに化けの皮ははげて人気が落ちると、また別の公約をかざす
次の首相候補がでてくる。
しかし実際、政策や予算の裁量の範囲は広くはない。
震災にあった人がテレビのインタビューで、「総理なんて誰がやったっ
て同じよ」とクールに言っていたけれど、本当にそうだと思う。
悲惨な政治体制や戦争で、人間は不幸になるが、反対に良い政治
の下でみなが幸せかというと、必ずしもそうではない。
そういう意味では政治は自動車や石油と似ているところがあり、多少の
毒は撒き散らすが、世の維持には不可欠な必要悪であるかもしれな
い。
それでも政治好きという人は世の中に多い。
それ自体は極めて健全なことだ。
人間に生まれてきたのだから、人間として人間に訴えていくことは必然
のことだ。
「人間を動かすことほど面白いことはない」という政治家の言葉を見た
ことがある。
こうした人間らしい暖かさが世を活気あるものにし、高揚を生むことも
あり、悲惨をうむこともある。
しかしどうも私はその辺の感覚が薄いのだ。
先ほども書いた通り、人から離れてずっと何かを作り続けることを好む。
もちろん何も感じないわけではないし、選挙にもほとんどいく。
けれどだれがやっても大きくは変わらない現実が見えてしまう。
そういう意味では私が政治家に期待していることは極めて少ない。
しかし少ない中でどうしても期待し、望んでしまうのが原発の廃絶だ。
こればかりは、個人ではどうしようもない、今生きる全人類の、これから
生まれる全人類の未来を左右する問題だ。
経済の成長を犠牲にしても、いやそれだからこそ、脱原発はやらなけ
ればならない。
成長や開発の幻想から人間が解き放たれ、自分らしく生きる機会をえ
る契機となる可能性がある。
既得権を持つ経済界やプロの政治家には無理なことだろう。
彼らには現状の維持と幻想の継続を求められている。
マスとしての人の支配にはそれしか手段はないかもしれない。
しかしそれは限界にきているし、現に原発事故は起きた。
多くの人の反発を覚悟の上で書くと私は菅総理に期待している。
彼はプロの政治家としては未熟だ。
就任当初、消費税の問題をみんなで協議しようと呼びかけて不興をか
った。
菅総理は必要なことだからみんなで解決しようと呼びかけたのだが、
政治家としては言ってはならないことだったのだ。
あくまで市民運動の延長として政治をとらえているようだ。
だから、今度の脱原発に向けての発言もすることができた。
これから広島や長崎での式典で、何らかの発言があり、それで次の
動きが生まれるかもしれない。
衆院の解散や新党の結成などということもあるかもしれない。
それでも一気に脱原発が可能になるとは思えない。
しかしこの一石が、次の動きをうみだす布石になってもらいたい。
政治への期待が薄い私だが、今後の菅総理の動きには注目し、期待
したい。
青森県知事選挙での保守の強さには驚かされ落胆も大きかったが、
まだ可能性はあると思いたい。

晴屋の青い扉 その54 忘れたい

一向に収束の気配を見せない原発のことを考えていると、世の中にもう
何もいいことがないような気さえする。
重苦しい気分の中、それでも毎日を踏みしめていると新しい出会いと動
きはあるものだ。
とまと畑の漆器は本当に多くの支持を集め、今までの晴屋のセールで
は最大の売り上げを記録した。
ほぼ完璧な安全性と素材の良さに、手間をかけた丁寧な作りが自慢だ。
シンプルで質感のよい美しさにあふれ耐久性があり、実用的で機能的
であり、生活に溶け込みやすい。
いつもの食事が特別のもののように感じる。
小田原漆器の職人であった田中さんが、自ら中国に行き製作と指導
をしている。
その形や美しさを創り出した、安全で良質のものを多くの人の生活に
取り込める価格で届けたいという、志の高さに感動を覚える。
その意気を感じたら、こちらもじっとしてはいられない。
セールの前後3週間くらいの間に同じセールストークを100回以上繰
り返しただろうか。
繰り返しが苦手で、すぐに飽きる私だが、不思議なほどにやりとおせた。
もちろん、一人ではできないことだ。
食い入るように見つめて釘付けになったり、最初は「物を減らそうと思
っているから」などと言っていた人が説明を聞いているうちにいつの
間にかすっかり買う気になったり、手触りのよさにうっとりしたりといった
反応があってはじめて成り立つ会話だ。
そうして思った以上の手応えがあり、多くの注文が寄せられた。
お椀だけで12種類あり、品物を間違えずに揃えるのは、これまた
細かな作業が苦手な私にとっては、年末の忙しさに匹敵するような緊張
の連続だった。
震災や原発のストレスもあったうえに、乾燥が続き、花粉が飛び交い、中
国からは黄砂もやってきて、私の弱点の咳が始って止まらない。
こうした時の咳は自然な働きでそれ自体に問題はない。
気管の中には繊毛があって、ほこりや雑菌が肺に入らないよう防いで
いる。
湿気があれば自然に繊毛が不純物を外に出してくれるのだけれど、
乾燥しているとうまく働かない。
それで咳で気管から外に押し出している。
しかし、咳が続くと気管が炎症を起こし、体力も消耗して疲れがたまっ
ていく。
そして季節がら紫外線も強くなり、眼の疲れは迷走神経を緊張させ、
よけいに咳が出るし、眠りも浅くなって、ますます体力は落ちてくる。
今回のこの咳には、放射能の影響も少しはあるのではないかと思って
みたりする。
私がお世話になっている整体の指導者に今回の原発で影響を受けて
いる人がいるか質問してみた。
国立にあるその指導室では、誰も影響は出ていないという。
放射能の影響は肝臓で確認するそうだ。
CTやレントゲンの影響はすぐに分かるという。
今の時点ではそこまでの問題は起きていないのだろう。
中国の黄砂には化学物質がいっぱい含まれているというし、それに多
少ではあっても放射能の影響があったら、咳で体外に出そうとする反
応があっても不思議ではない。
私の周囲や子供たちで咳をしている人は多いような気がする。
だから咳自体は問題ではないのだけれど、体力の消耗はどうしようも
ない。
呼吸器系の疲れが蓄積すると睡眠をとっても疲れが抜けなくなり、体力
ばかりでなく、気力も落ちてくる。
私などちょっとしたうつ状態になってくる。
漆器も注文や仕分けの間違いがあり、お客さんからの交換の要求など
もあり、さすがに3週間を過ぎると息が上がって、もう限界だなと感じて
しまう。
こうなると何もかも嫌になって、全部投げ出したい要求も芽生えてくる。
原発のことも含め、全部を忘れてしまいたい気持ちが内側で膨らむ。
知らないで過ごせたら、見ぬ振りをして余計なことを考えないで生きら
れたらどんなに楽だろうかと憧れる。
私を含めて多くの凡人たちにとっては、この状況は限界を超えている
のかもしれない。
これだけの不安と、これだけの多忙をかかえて平静に暮らすのは、とて
も難しいことだ。
最近、丸山真男の「日本の思想」という本を読みかけていて、多忙と難
しさのため一ヶ月経ってもまだ読みきっていないのだけれど、私の中
にも日本的な思考パターンが根強くあることを自覚させられている。
天皇制や同族会社のトップなどの上層と、地域や家族などの下層に
共同体的心情が色濃く残り、国家機構や会社の組織などの中層では
合理化が推し進められ、矛盾しながらも個人のなかにもそれが同居し
ているのが日本人の思考のパターンだと丸山は言う。
私なりに解釈すれば、濃密な親子関係に育てられた、気持ちをこめ
れば他人も必ず私を受け入れてくれるという期待と甘えに支えられた 
感覚だ。
日本人の感覚の敏感さは、他者の感情を自分のことのように感じ同調
する繊細さを育み、自然とも敵対せず一体になることを好み、社会の情
勢に沿って生きようとする。
私は岩手の出身だが親戚やTVでの報道を見ていても、今度の震災
で自然に対して恨みごとを言う人はあまり見かけない。
天災なら仕方ない、また別の生まれ変わりで違うがんばり方ができれば
いいというような、ほとんど神話の世界のような感覚が私たちの中に
はある。
私たちがこの世に生まれてきた中には、確かにそういう部分もあると
私も思う。
しかし、別の神話もこの世には存在する。
みんなでやっていれば、多少の矛盾も間違いもなんとかなり、後の人
たちがやってくれるのではないか。
現代の科学の巨大な化け物である原子力を前にしても、その神話を
信じている人たちが多くいる。
震災は天災だが、原発は人災だ。
これはもう理屈の問題を超えている。
知性に埋没するだけでも危険なのに、それに神話的な甘えが加われ
ば、まったく手のつけようがない。
グローバル化した世界経済の中、日本を含めて多くの国家が、なか
なか脱原発を積極的には言い出せない状況があるのは確かだ。
巨大な経済には巨大な利権があり、それに巣食う怪物たちが必ずいる。
われわれは尻尾をふんづけられ、日本の選択の余地はあまりに狭い。
そんな中で私たちに何ができるのか?
小さな閉じた流通で、小さな経済と生産者や自然との濃密な関係を
模索してきた晴屋だけれど、この大きな流れに翻弄されている。
数多くの努力が続けられている。
福島の学校の年間20mシーベルトという国の基準の改悪に対して、
多くの声が上がり、元の1mシーベルト以下になるように表土の除去の
費用を国が持つという発表が文部科学省からあったが、それには山
本太郎という人の芸能生命を賭しての主張も効果はあったろう。
週間金曜日というスポンサーを持たない雑誌には、教科書編集者とし
ての身の危険を冒して、文部省が原発についての表記を危険を感じ
させないものに変えさせてきた事実が発表されている。
池袋の新文芸座では6月3日から8日まで、核についての映画の特
集が組まれている。
これらの動きに共通のものとして感じられるのは、放射能への恐怖とし
て原発を否定しているというよりは、自らの生き方の問題として捉えて
いるということだ。
政治は理念よりは、どれだけ票が集められるか、国会議員の数を獲
得できるかという、数字の問題にすりかえられている。
経済はお金という客観的尺度が価値としてまかり通り、さらには実態
のない証券や投機が世の流れを左右し、その数字の動きに多くの
人が翻弄される。
巨大な社会の中では個人の思いなどには何の意味も無く、数の力が
すべてとなる。
イリイチという人は、絶望を見据えながら今生きることを享受するしかな
いと、言い切ってしまった。
私たちはまだそこまで希望をなくすことはできないが、原発神話を信じ
ることもとうてい不可能だ。
微力であることは分かっていても、原発という巨大なエゴに立ち向かう
もの、対極にあるものとして、個人の生き方を問うていくしか道は見えな
い。
今私たちはどこにいて、何に向かっているのか。
もうひとつの生き方があるということを示し続けるしか、話が下手で流行
りものを嫌い、目立つことを好まない徹底した個人主義者である私には
方法がない。
とまと畑のように小さくて地味だけれど素晴らしい物を作る余地は、まだ
ある。
この漆器や、野菜の美味しさが伝えられるうちは、私にはまだ希望が残
されている。
怒りと哀しみに、希望をない混ぜにして、生きつづけるしかない。

晴屋の青い扉 その53 いま、できる事

晴屋の青い扉 その53
いま、できる事

私の個人的楽しみの最大のものは、自分のオーディオシステムでの音楽鑑賞だ。
貧しい八百屋なのでそう高価なものを買うことはできないが、お小遣いの大半はCDとオーディオに
なっていく。
新しい音楽、知らない演奏に出会い、触発され、人間の可能性や生きる楽しさ、素晴らしさを感じ
るのは何よりも喜びだし、自分の身をふりかえって生きる指針となることも多い。
そして、それを聴くためのオーディオも手をかけ、工夫し、エネルギーを注げば、結果で答えてく
れて、音の微妙なニュアンスや演奏者の息づかいが生演奏よりも感じられる瞬間があるほどになる。
コンサートに行く時間がなく、日常のなかに音楽を持ち込むしか鑑賞の手立てがない私には、不可
欠のアイテムとなっている。
こんな私だから、電気のない生活など考えることもできない。
真面目な枉駕さんでは、ホールでのBGMをやめ、調理場での本多さんの楽しみである、ジャズを聴
きながらの仕事も、節電のため一日CD1枚に制限しているという。
偉いなあ。
私には到底やりようがない。
オーディオの消費電力は50Wほどで、電球1個消して楽しめばいいかといいわけしつつ続けている。
今年は震災前から、何故かベートーベンに浸っている。
頑張らなくっちゃという予感があったのだろうか。
辛いことが多い時期、この音楽に励まされ、癒され、新しい力をもらって、かろうじて日常をこな
していく。
そんなことの連続の一ヶ月だった。
茨城の私たちの生産地ではいまのところ放射能の危険な数値は検出されていない。
しかし、身体の反応で多分大丈夫とは感じても、売り続けるのにはそれなりに勇気や覚悟が必要だ
ったし、確実に気力は消耗した。
それでも多くの人が普通に、あるいは普段ほうれん草を買わない人があえて買ってくれたりして、
てごたえはあった。
晴屋でも照明は落として半分にしているが、うす暗い方が私には好みで、このままが許されるなら
ずっとこのままでいいかなと思ったりする。
こういう時には、その人の持っている価値観があらわになるし、信頼関係も試される。
生産者の近況報告と共に、お客さんたちに提案しているのは、自販機を止めましょう、ということだ。
何人かに話していたら社民党の福島瑞穂党首の知人という人もおり、「話てみるわ」と言ってくれた。
みんなで唱えていれば可能性があるかもしれない。
自販機にかかる電気代はすごい。
昔の機種だと月2~3万円。
最新の機種でも数千円かかる。
こんな無駄が許されているということ自体がおかしい。
なければなくてもすむ物に、目先の便利さのためにエネルギーやお金をつぎこんでいる。
しかし、今個人で持っている人は「お宅は一等地です」とか営業マンにだまされ、たいした利益もで
ないのにうまく利用されている人がほとんどだろう。
欲に目がくらんだと言ってしまえばそれまでだが、それまで止めろとは言えない。
ただし暖めたり、冷やしたりということはやめるべきだろう。
電気代の大半はこれに費やされている。
一人では無理だが、みんなでなら実現可能なかなりに有力な節電対策になるだろう。
私がさらに目論むのは、過剰からの脱却だ。
自販機が本当に必要で役にたつこともあるかもしれない。
しかしあまりに多すぎるし、性急に必要なときは、温かいとか冷たいとかそんなことは問題にならない。
口当たりの良さやとりあえずの売り上げといった小手先のことでない、本当に必要な最低限の物で、
的確な効果をえるような、本来の意味で実用的な生活文化が望まれている時代だと思う。
オール電化や夜間電力は、直接原発とつながっているようなものだから、ノーと言わなければならない。
少しくらい暑くても、寒くても生き物である以上、耐える力を持っているはずだ。
経済やエネルギーの問題以前に、
その力を弛緩させていては、全力で個性を生かして生きていることにはならない。
休息し守らなければならない時ももちろんあるけれど、溌剌と生きるためには余分なものがないほう
がいい。
今度の原発事故は、そんなことも人間に問うていると思う。
もう一つ、過剰には知性の暴走もある。
卓上の理論の暴走の一番の分かりやすい例が原発だ。
理論自体は正しいかもしれない。
しかし前提条件が狂えば危険な暴走が始る。
施工も寄せ集めでやっつけ仕事、定期点検も素人ばかりでいい加減、取り締まるはずの保安員も畑
違いの文系が平気で来てその場の書類しか見ない同じ穴のムジナ、部品の交換も放射能にまみれ
るため手順もふまえない手抜きになる。
これでは事故が起きない方がおかしい。
廃炉にしようと思っても解体には建設の数倍のコストがかかると言われている。
そんな費用はないから止めておくとしても、放射能まみれでボロボロになっているから常に水を循環
させなくてはならない。
それがほぼ永遠に続く。
原発が発電するエネルギーより多くを使わなければならない。
後世に処理不可能なゴミを残し、自分のツケわ払わせようというのが原発だ。
目先の利益を追った暴走としかいえない。
しかし反対派にも暴走はある。
不必要な過剰反応、これも知識に縛られた暴走といえる場合がある。
米やトイレットペーパーの買いだめと本質的には変わらない。
恐怖は人の目をくらませる。
人間を思い通りに動かすには恐怖に訴えるのが一番てっとり早い。
私は時々、だれかがあえて混乱を作り出し、それによって世をコントロールしているのではないか
とさえ思ってしまう。
それもまた神か、宇宙の意思で、人は試されているのかもしれない。
戦争も、宗教の争いも、野生動物の世界にはない。
知性を持つ人間だからこそ、知識に縛られる。
知ることによって物を支配するかわり、知ることや物に縛られ、それから逃れられなくなる。
生まれた場所を愛し、その文化を大切にするのは当然のことだ。
持って生まれた可能性を全て生かして生きたいという思いもまた当然のことだ。
知っていることを試してみたいというのもある意味自然かもしれない。
しかし知性の暴走と健全な生活の境目はどこにあるか。
厳密な境はどこにもない。
また人によっても基準や許容量が違う。
それが余分であり、過剰であると見極める眼を一人一人が育てなければならない。
大きな社会で、過剰な情報の中、自分の存在意義と、価値と、方向を見定めることは難しい。
私にはそれは知性によるのではなく、本能的なものの自足のなかで育まれるものだと感じられる。
潜在意識と意識が分離したとき、知性は暴走を始める。
義務感や必要性、社会の要請や強制で自分を見失うことは多い。
テレビは短絡的娯楽で、とりあえずの楽しみを提供し、自分でものを考えない大衆を量産する。
世の中がいい方向に向かっているとは言えない。
しかし、赤ちゃんの無垢な笑顔につられてこちらにも笑みがこぼれる時、倒れそうなおばあさん
に思わず手を差し伸べる時、子育ての喧騒のなかで疲れと安堵を感じる時、音楽の感動の内に自
分の生きる道をみいだした時、私たちは限りなく本能と意識が近接した充実の中にいる。
今私たちが考えたり、心配したりしている間も原発の現場でいのちをかけて働いてる人たちがいる。
推進派の人ばかりではないだろう。
お金のためという人もいるかもしれない。
しかしその人たちにも家族はおり、恐怖と心労ははかり知れない。
私たちは直接の放射能の死の危険からは遠いところにいる。
私は科学者でも医者でもないから断定的なことや明確なことを言うことはできない。
しかし比較的近い福島でも30年後の癌になる率が何パーセントか上がるということになるだろうか。
社会全体からみれば大きな数字になるのだろう。
しかし全員がなるわけではない。
癌は精神的ストレスや食生活、添加物などの影響も大きい。
恐れているよりは今の自分を維持し、より敏感でしなやかな身体と心の感受性を育て、異常や排泄
の反応は自然の経過として静かにやり過ごし、自分の個性の実現と次の世代に少しでもよりよく生
きる余地を残す努力をしなければならない。
難しい時代だからこそ、やりがいもある。
電気も、放射能も、添加物も、その他の多くのことも、オール・オア・ナッシングではない。
人間にも、自然界にも許容量がある。
まったくの安全から、いのちの危険までの間に無限といっていいほどの選択肢がある。
その中で自分や子供たちの心や身体を健やかに保ち、その伸びしろを確保することが求められる。
恐れ、弛緩していたら、原発や東電や、世の流れに圧倒され負けたことになる。
私をほとんど褒めたことのないお客さんが最近の私の仕事ぶりをみて、「頑張って」と声をかけてくれた。
人の過剰を指弾する私だが、明らかに仕事しすぎで過剰の極みかもしれない。
しかし少なくとも素直に生きているし、意識と潜在意識は別のところにはない。
生きる喜びも、希望も、音楽を聴くささやかで大きな楽しみもある。
人はいろいろな状況のなかで、生きていける。
子育てに悩む若いお母さんたちにその言葉を返したい。
「負けないで、頑張って」と。

晴屋の青い扉 その52 ここに生きる

晴屋の青い扉 晴屋通信より
ここに生きる

中古の車を乗りつぶしていく晴屋。
エコカーを新車で買うよりも環境への負荷が少ないということをいいことに、自動車を荒く扱って仕事を続け、廃車になるまで使い続けている。
最近買ったバンにはカーナビがついているが、地図ソフトが古くて使いものにならず、間もなくまったく作動しなくなってしまった。
別になくてもかまわないのだけれど、新しいお客さんの家を探すのに便利な時もある。
テレビの通販で約3万円で出ていたので思い切って注文してしまった。
ねずみ取りのレーダーの位置やガソリンスタンドの場所まで教えてくれて何かと利用している。
電話番号だけで全国への道順を表示してくれる。
ふと思い立ち、最近一番気になっているパプア・ニューギニア海産の電話番号を入力してみた。
この会社とはもう10年以上の付き合いになる。
パプアニューギニアのきれいな海で獲れたエビを船上ですぐに冷凍した、鮮度と風味が抜群なものだけを扱っている。
これを食べると他のどのエビも満足できない。
エビ好きの私たちにとってはかけがいのない品物だ。
開発途上国の自立をこちら側の価値の押し付けでなく、地域に根ざした新しい産業と文化の育成でもくろんでいるこのプロジェクトは経済を超えた発展と交流の可能性をはらんでいる。
以前は豊島園の駅前に事務所と店舗があり、直接引き取りにいっていたので社長や専務なども顔見知りだ。
彼らが原発への不安などもあって、仕事場を石巻に移したのは5年程前だったろうか。
今回の震災と津波の影響で石巻の壊滅的な状況を見るにつけ、気になってしかたなかったのだけれど、もしかして山の方に事務所や作業場があるという可能性もあると一縷の望みを持って、カーナビを検索してみた。
期待は残念ながら外れ、場所は港の岸壁の間近だった。
これでは会社の建物の崩壊はまぬがれないだろう。
後は、従事している人たちの生存を祈ることしかできない。
人間が無事でも、もともと商売が上手ではなかったこの会社の復興の道は厳しいものがあるだろう。
あのエビをもう食べられないかと思うと余計に寂しさと切なさが胸に迫った。
私自身が直接被災したわけではないが、惨状や岩手の他の生産者の状況、ガソリンの手配で朝5時からの列に並んでの待機、米や納豆を求めて知らないお客さんが来た時の応答やお断りなどで、日に日に疲れが蓄積していった。
そして福島第一原発の問題が連日報道される。
危機的な状況が回避できず不安は高まっていく。
私の周囲でも西へ逃げる人が何人かいた。
原発の危険性を訴えていた側の私だが、「晴屋さんの言っていた通りになったわね」などといわれても、うれしくはない。
胸がぎゅっと縮こまった感じのまま、ため息とともに「残念ながらそうですね」というのが精一杯だ。
しかし不思議と逃げようという気はおきてこない。
身体がそういう反応をしない。
何故かやけに冷静に周囲を見回している。
疲れてはいるが、人間性があらわになる緊迫した状況だからこそ、なるべく心しずかに、平常を保とうとしている。
こうした時には意外な、いや実は必然的な出会いもある。
最近、丸山真男という巨大な知性を持った人の本を読んでいる。
それに関連して音楽好きだった丸山の音楽への情熱を語った本「丸山真男 音楽の対話」(中野雄著文春文庫)も読んでみた。
以前私もセルの連載の中でもふれた、フルトベングラーという指揮者の音楽を丸山は愛していたという。
しかしドイツの文化を継承しようという意思のため、政治は一過性のもので芸術は永遠だという信念にもとづいてドイツで演奏を続け、結果としてナチスに利用されたフルトベングラーの、政治的態度には厳しかった。
一方ケンプという著名なピアニストは亡命せずにベルリン郊外にとどまり、私財を売りながら隠遁生活を続けわずかなレッスン料も入らないほどの状態でも窮状を耐えた。
フルニエというフランスのチェリストもあえてナチス支配の国内にとどまり同胞と同じ辛苦を共にした。
丸山は言う。
「あのときも書いたけれど、フルトヴェングラーも含めて、ナチス支配下の母国に積極的に居残った音楽家の姿勢には共通した何かが感じられますね。
とくにケンプとフルニエの音楽にはそれがある。
毅然たる姿勢、凛とした音楽・・・・。
そのつもりで聴いてしまうから、そう聴こえるのかもしれないけれど、背筋をピンと伸ばして、孤高を守り抜いたという芸術です。
精神の貴族性ですね。
何ものにも屈しない、現実から逃避しないという、いちばんいい時代のヨーロッパの精神的遺産です。
君のもってきた二人のライブ、べートーヴェン生誕二百年記念のパリ・コンサートですか。
比類なき名演だな。
音楽的な感性は正反対のように思えるけれど、共演が生んだ世界には毛ほどの違和感もない。
ベートーヴェンの音楽に対する共感と尊敬の念と・・・・・そういう気持ちがこういう演奏を生むんですね。
おそらく戦時中の共有体験が無言のうちに二人を結び付けているんだと思う」
このような厳しさに、私が耐えているとも、耐えられるとも思わないが、少なくとも自分が何を求めているかは、この言葉によって理解できた。
いざとなったら、実際死の危険が迫ったら私も一目散に逃げ出すかもしれないけれど、少なくともできる間はこの場所に留まって、同じことを続けるのが私の責任だと感じた。
私にはヨーロッパの音楽家たちのようには受け継いだ伝統や文化はない。
しかし晴屋をはじめて、この食べ物がいいんだよ、こっちの生きかたのほうが自然なんだよと言い続け、それを引き受けてくれる人たちがいる。
そのことの重さを感じる。
それは必ずしも安全性だけを求めたものではない。
今晴屋の店頭に並んでいる法蓮草には張り紙がしてある。

この法蓮草は茨城産です。
千葉県との県境近くで影響は少ないと思われますがゼロではないでしょう。
不安を感じられる方は、購入をお控え下さい。
なお、茨城産で放射性物質が多く検出されたものはあえて露地ものを測定したということです。
同時に検出されたかき菜は通常路地栽培する物です。
晴屋及びほとんどの生産者はトンネル栽培といわれる、ビニールで覆い防寒対策をした栽培方法をしています。
この方法で葉に放射性物質が付着することはほとんどなく、影響はきわめて少ないと予想されます。
また放射性物質は重金属類で、油や有機物ではないため、比較的簡単に葉からの洗浄、除去ができるようで、アルカリウォッシュ・重曹は洗浄に特に有効です。
ただし根から吸収する場合もありますので、根の付近は食べない方がいいだろうと思います。

今の法蓮草を作っているのは斉藤さんだ。
もう30年もこの法蓮草を売っている。
本当に危険ならもちろん扱えないが、すべてが白とは言えない状況のなかで多少の灰色は、たとえそれによって売り上げが落ちたとしても、引き受けたいと思う。
もちろんお客さんへの責任もあるが生産者への責任も私たちにはある。
ここに生きるという感覚と覚悟は、必ずしも空間の問題でなく、生きて支えあっているという確信によっている。
また一方、人間の種としての寿命や生命力に期待したいという思いもある。
公表はされなかったが、チェルノブイリの原発事故の後、多量の放射能が日本にもやってきた。
私の4人の子供のうち、3番目の女の子がその時期乳幼児だった。
成長過程でのアトピーのようなものは誰にでもあるが、私の家では圧倒的にその子の症状がひどかった。
皮膚は整体的には最後の砦といわれ、他の器官で出せないものの排出する働きがある。
出す力があって、出しさえすれば、後に問題を残すことはない。
危険な場合は避ける勘も含めて、そうした人間の持つ力が試されているともいえる。
しかし、そんな悠長なことを言っていられるのも、福島第一原発のトラブルがこれ以上の被害を出さずに収束していけばこそだ。
事態は決して予断を許さない。
今、収まればアメリカでのスリーマイル島の事故程度だが、これ以上進めば、チェルノブイリかそれ以上ということも考えられる。
ここに生きるなどという、私個人の小さな思いなど跡形もなく吹き飛んでしまう。
先日、関西に避難していた枉駕の本多夫妻が帰ってきて営業を再開した。
お酒を飲みながら話をする機会をもったが、枉駕では関西の野菜の仕入れを検討しているという。
晴屋と違う野菜との向き合い方だが、エビは同じところから仕入れている。
その時、本多さんがネットで得た情報として、パプア・ニューギニア海産
の人たちが全員無事で生きているということを教えてくれた。
地震の直後、従業員も含めて直ちに海から離れたという。
いいことが何もない今の状況の中、ほっと救われたような思いがした。
今後の再開のことはまったく分からないが、援助やカンパを申し入れてくれるお客さんもおり、様子を見てできる事をしたいと思っている。
福島第一原発での事故の収束を、ここで生き続けられることを、祈るしかない日々が続く